こんにちは、ストロング宮迫です。
しばらく前にとてもおもしろいと紹介したChikirinの日記に、ちきりんさんがこの前、こんなことをつぶやいていた。
人生で何か成し遂げたいことがある人にお願いしたのは、自分で「何かを成し遂げる」ことに一生懸命になるのはいいんだけど、周りの人にそれを押し付けるのはやめてよね、ってことです。「なにも成し遂げない、楽しいだけの人生」も、十分に価値のある人生なんだから。
— ちきりん (@InsideCHIKIRIN) October 26, 2013
個人的にはとてもしっくりくるツイートですな。時々、熱い知人から「夢も目標もない」ボクは責め立てられることがあるんですが、ほっといてほしい・・・ボクはボクでよろしくやっているんだから。
こうしてボクの気持ちを代弁してくれたChikirinさんは女性。考えてみると、最近、自分の気持ちを代弁してくれたり、目を開かせてくれたり、ヒントを与えてくれているのは女性が書いたものが多いことに気づきます。
周りを見回しても、大いに仕事で助けてもらっているのは女性ばかりだし、こうした女性がどんどん出てくると、男はキツイですよね。蹴散らされちゃうもの・・・
たとえば就職でも男の子のライバルは男の子ではなく、もはや女性なんじゃないのかって思うもの。
少なくなった就職のパイを男性同士ではなく、女性が参戦して争うことになると、もはや女性が圧勝しちゃうんじゃないでしょうかね。
もし今そうでなくても、そのうちにそうなりますよ。男の子、危うしですな・・・
国内の企業で役員や課長クラス以上の管理職に就く女性の割合は、全体の11.1%。
内閣府の「男女共同参画白書」2013年度版で紹介されている米国の43.0%やフランスの38.7%、シンガポールの34.3%に遠く及ばない。
現状ではこうなっているようですが、アメリカやフランス並みになるのはそう遠くない日に実現するだろうとボクは思っていますが、皆さんはどう思います?
さて、女性の書いたものがおもしろいと書いたついで、もう1つ小野美由紀さんの「就活こじらせスペイン巡礼記」を紹介します。
とてもおもしろいというか、親は考えなきゃいけないなと大いなる示唆を与えてくれる「巡礼記」です。
たくさん紹介したいところはあるけれど、今回は、
9日目の『私はマオ・レゾルビーダ(未解決人間)』から一部抜粋引用します。
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大学進学時、一番行きたかった大学に行くことを、母に反対された。その大学に行くなら、学費は払わないと言われ、包丁を突きつけて泣きながら懇願した。それでも母は頑として首を立てに振らなかった。3日間の修羅場の後、疲れ果てて私が折れた。後に続く大学生活のことは、もうどうでもよかった。
入学後、せめて勉強する分野は自分で選ぼうと、留学を決めた。
行きたい大学に行けなかったんだから、せめてどこかに抜け道を探そう。そうして交換留学の試験に受かった。母は喜んでくれなかった。どうせ行くならアメリカの大学にすればよかったのに。そんな名の知れない大学なんて、就職活動の足しにもならないわよ、と。
就職活動中、一番行きたかった企業のインターンに合格し、喜び勇んで家に帰って報告した。報告する前から、無意識の内にうっすらと母の表情は予期していた。それでも報告せずにいられなかった。母は無言だった。
翌日、母が受けてほしい企業のパンフレットと、週刊誌が机の上に置かれていた。
パンフレットは、電通と、博報堂、それから4大商社だった。
週刊誌の「就活生に人気が落ちている企業」という特集記事の中の、私の行きたい人材系の企業の名前に、赤線が引かれていた。
母にとって私の言動は、すべて白紙の通知表だったのだ。毎回点数をつけて、無言で突きつけるための。
やめて。やめてよ。
私に点数をつけないで。
点数をつけるんなら、せめて一度でいいから、ほっとする点数がほしいよ。巡礼に出た今も、パニック障害で就職活動を辞めたことを、母には言えないままだった。
その後に続く母の表情を想像したら、「あの時、エスカレーターに乗れなかったんだ」と、打ち明ける勇気はとても持てない。
母はなぜ、私が就職活動をやめたのか、未だに知らずにいる。
一番恐れていたのは、この事だったのだ。
就職活動以前に、自分の抱えている問題がなんなのか、この旅で自覚してしまうことが、一番怖いことだったのだ。
できるなら、家族をめちゃくちゃにぶっこわして、消えてしまいたい。
身体のあちこちが、未解決の問題で汚れているのが、今の私なのだ。
自分の家族との間に、これまで抱えてきた問題。家族との摩擦の中で身体にべったりと固着した黒ずみを、どこに行っても、どこに逃げても、私は、隠せない。
自分の中心を見るのが、こわい。・・・
親が希望する学校や大学や会社があってもイイとボクは思っています。そこに向かって親が誘導するのもありだと思っています。
でも、親子で話し合いは必要だし、最後に決めるのは子供。
最後に決めるときに子供が親の思いとは違う選択を希望したなら、それはそれまでの親の誘導が負けたってことで諦めるしかない。
だって、学校に行くのは子供なんだし、会社に勤めるのも子供なんだから。
親が誘導していった選択肢は子供が決めたとはいえないんじゃないかって考える人もいると思います。
ただ、仮に親が誘導した形を子供が選択したとしても、たとえば子供に「なぜそうしたの?」って聞けば、今までボクが接してきた子供たちは「自分で決めました」って言う。
それは親の誘導と子供との話し合いの中で、あるときから子供自身にとっては自分の選択になっていっているわけですね。
だから、親からすれば「私が道をひいた」と思うかもしれないけれど、子供からすればいろいろとヒントはもらったけれど、最後は自分で決めたと考えている。これは親の誘導が最終的には子供自身の決断になったということです。
なぜ子供自身が決めるということにこだわるかというと、誰かが決めた選択肢は、そこでうまくいかなくなった時に「自分の考えではなかった」という逃げをうたせないためです。
自分で決めた。だからもう少し頑張ろうと思えるわけで、「親が行けって言ったから」行ったというのは、物事がうまく進まなかった時に大きな障害になる。
うまくいかないことも、人のせいになってしまうんですな。
自分が決めて行ったとしても全てがうまくいくとは限らない。思っていたのと違ったということだってあるだろうし、ここじゃないって思うこともある。そしたら、また話し合って、逃げじゃないことを確認して、新しい決断をすればイイ。
先の小野美由紀さんの「巡礼記」でいえば、小野さんに選択の余地がほとんどないわけですね。
それがボクみたいなロクデナシだったら「てめぇー、ふざけんな!」って親にタンカを切って家を飛び出す。たぶんそうするでしょう。親子の縁もそれで切れていくのかもしれない。切れても構わないとも思うでしょう。
でも、小野さんは気のイイお子さんなんですよね。すごくイイ子。優しい子。優等生という言い方があっているのかわからないけれど、親の気持ちを自分を殺して無制限に受け止める。
それは大学の時の1回じゃなく、たぶんそのもっと前から、そして就職の時も、何度も何度も自分を押し殺して親の言うとおりの選択肢を最優先に考えてあげようとしてしまう。
ボクのような、すべてを自分で決められないなら死んだほうがマシだとかいう(親にとって)悪い子供ならそれで家を出ちゃうから問題にならないけれど、小野さんの場合はそんなことはしないから、全部自分にたまっちゃう。
それが積もり積もると、自分が空っぽになっていくので
自分の中心を見るのが、こわい。
となっていったんじゃないかと想像します。
イイ子というか親に従順な子供の場合は、親が図に乗っちゃうんだな。無神経にガンガンいっちゃう。
よかったですね、あなたのお子さん、反抗的で・・・
怖いのは、親は子供にとってイイことを進めているという感覚だけど、子供にとっては自分が考えているのとは真逆の方向へ向かわさせられている正反対の感覚になっていること。
まさに引き裂かれる感覚で、これが子供の内部で起こるわけですから、それは子供のどこかにゆがみとして出る。
だから、よく子供が反抗するって親は嘆くけれど、それは親への自己主張だから、すごく大事なことだし、子供が言った自己主張をよく話し合うことが大事なんですよね。
リチャード・バック著『僕たちの冒険』の中でこういうのが出てきます。
私は少年の瞳を見つめた。
「私の真実が君にとっても真実なのか、それともたわ言にすぎないか、判断できるのは君だけだ。
私が命がけでつらぬく信念、私の知っている至高の権利 ― それすらも君にとっては一つの提案、一つの可能性でしかない。
君はそれらを選びとり、その結果をみずから生きていく。イエスあるいはノーと答えを出すたび、個人的体験という学習を重ねていくことになるんだ」
親がこれまで命懸けでつかみとってきた信念や考えは子供にぶつけたらイイ。伝えられるのは我が子だけなんだから。
ただそれは、それすらも、子供たちにとっては「一つの提案、一つの可能性でしかない」という前提で、子どもと話し合わなければならないし、最後は子供が決める。
親はその決めるための材料をせっせと運び、子供にぶつけて、子供と話す。決めるのは子供。
小野美由紀さんの「就活こじらせスペイン巡礼記」、今回紹介したのは「9日目:私はマオ・レゾルビーダ(未解決人間)」ですが、この他のものをぜひ読んで子供の気持ちを考える参考になさってください。
ここからは余談です。読み飛ばしてもらってかまいません。
ボクがガキの頃、オフクロが雨になるとよくこの歌を口ずさんでいました。
この「子連れ狼」、萬屋錦之介が演じたバージョンのテレビ時代劇の中で、今調べてみたら「刺客街道」という題の回ですが、ここで主人公の拝一刀が息子の大五郎にこれから行く道を尋ねる場面が出てきます。
物好きな人は見てください。ボクが書きたい場面は29分30秒くらいからの場面です。
詳しくは説明しないけれど、設定は父・拝一刀が「生後半年」の息子・大五郎に問いかける場面です。
生後半年ってまだ首が座っていないんじゃないかとか、言葉なんてわからないだろうっていう野暮な質問はなしですよ。
生後半年の子供にだって、父・拝一刀は問うんだ。なんて問うか?
動画見ながら台詞を入力しなけりゃならないかと思っていたら、ネットにありました。
『子連れ狼』名台詞 ここから引用します。
おまえには何もわかるまい。父の言葉も、これから何が起こるかも・・・。
だが、おまえの体には拝一族の血が逆巻くように流れている。その血がおまえの採るべき道をきっと定めてくれよう。
これが手鞠、これは拝家代々に伝わる胴太貫。
よいな大五郎。手鞠と胴太貫、このいずれか一つを選ぶのだ。
もし胴太貫を選ぶば、父と共に刺客の道を行く。拝一族の恨みを晴らし、柳生に受けた恥辱を濯ぐため士道を捨てて、まこと地獄の道に生きる鬼と化すのだ。その道は血と屍、殺戮と非情の刺客道となるであろう。だが、その刺客道を辿ることによってこそ受けた恨みを柳生一族に叩きつけることが出来るのだ。
しかし手鞠を選びたければそれでもよいのだぞ。いや、その方がおまえにとってはよいかもしれん。手鞠を選ばば母のいる遠い黄泉の国へ送ってやろう。そして母の元で安らかに眠るのだ。わかるな大五郎。
手鞠、胴太貫、いずれを採るか。
己の進むべき道を選ぶのだ。
ここまで父・拝一刀が言うと、息子・大五郎は手鞠に行くと見せかけて、胴太貫を取る!!
大五郎、お主、役者じゃのう・・・
大五郎!胴太貫を選ぶのか・・・
大五郎、おまえは胴太貫を選ぶのだな。
亡き母の元へ行く方がおまえにとっては幸せだろうに・・・。
そうか、刺客か、大五郎。子連れの刺客、子連れの刺客。これが親子の採る道だぞ」
生後半年のなにもわからない子供に進路選択させる。劇画だから、テレビだからと言うなかれ。
これから歩む道には誰しも困難がある。だからこそ子供自身に選ばせる、決めさせるという儀式がいるのではないでしょうか。
仮に親が決めた道だとしても、子供自身の決断となるように最終的にはもっていくのが親の務め。
この儀式なくして、己の道なし。
「子連れ狼」の萬屋錦之介は最高でござるなあ!
『10の鉄則』の感想、続々と・・・
小5 ぶーちゃかさん
感想が大変遅くなり すみません~。毎日 書かなくてはと思いつつ 日々の仕事に追われて、親子であわただしく過ごしています。そんななか夫婦で読ませていただきました。
主人はもう一度読まないと忘れてしまう、といっておりましたが、嫌がる風もなく、もう一度じっくり読み直すことで大丈夫と言っております。
私は読みながらメモし、その上で不安に思ったことを書き出して、もう一つ気にかかっていたことを音声講座で購入しまして聞かせていただいたので、まだ 頼りないですが、私にも何とかできるかなと思っているところです。
家族で小さな目標と名づけ、目標は設定してあったのですが、(机の前に書いて貼ってあった)
小さな目標
◎まずやるべきことをさがしてやる!!
自問・・・次に何をやるべきか
・・・何をやらないと困るのか。
・・・やったほうが後で楽しくなることは
・・:見つけたら楽しんでやるぞ!家族で楽しんでやりましょう♪
子供にさせるには漠然としすぎ・・・ 苦笑
ストロング先生とタイガー先生の言いたいことは、鉄則を読んでも 音声セミナーを聞いても、何も難しいことは言ってないし、なぁんだ そういうこと~と思えることばかりでしたが、良くない親の分類に自分が入っていることを認めるのが、ちょっとくやしかったです。でも このセミナーがあると言うことは、皆さん同じ思いなんだ。と安心に近かかったので、目が開いたと言ってもいいです。うろこが落ちたって感じですか! すっきり
これからは 迷いが少なくなる分 親子でがんばれることが増えそうです。
この鉄則が もっと前から読めていたら、我が家のがんばりはもう少し 楽になってたかも??と思ってしまいましたが、そうはうまくいかないか~ 出会うべくして 出会うものなのかもしれませんね
何より これからだと思っています。親子で楽しんでやれるよう、私に、筋を通す強い味方ができて うれしいです。
ありがとうございました。