こんにちは、ストロング宮迫です。
先日読んだ新聞記事で考えさせられる記事があったので紹介します。
あんまりGW中の行楽気分にはあわないかもしれないけれど・・・
<川崎・中1殺害>悩む不登校少年 彼らの方にあと一歩を
毎日新聞 4月15日 大場弘行(横浜支局)・・・上村さんは、上級生や他校の生徒と公園やゲームセンターなどで遊ぶようになり、事件のリーダー格の少年(18)らと出会ったとされる。
その交友関係を取材する中で、私は中2の少年を知った。年齢は上村さんの一つ上。中学も異なるが、公園でバスケットをして遊んでいるうちに知り合い、仲がよくなったという。
最初に話を聞いた時は驚いた。
髪形も服装もごく普通だが、会話の最中に平然とたばこを吸い始める。注意しても「小学6年から吸ってる」と気に留めない。
質問をしても、視線を落としたままスマートフォンを操作している。
同世代の若者が目の前を通り過ぎると「見てるとムカムカする」とにらみつけ、こちらを見たと思うと「何か買って」「カラオケに連れてって」とせがむ。
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狭い安アパートで10代のきょうだいだけの生活。母親は数日おきに様子を見に来るが、父親は寄りつかない。食事は1日1食。生活は「スマホいじって、疲れたら寝て、起きたらスマホいじっての繰り返し」。昼夜は逆転し、アパートは上村さんを含めた友人らの夜のたまり場と化した。
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少年は不登校の理由を「面倒臭い」と説明した。上村さんも、周囲には同じように話していた。「何が面倒臭いのか」。
私がしつこく問うと、少年は「校則が厳しい」「宿題が出る」「休むと次に行きづらい」「授業が進んでいる」と理由にならない理由を並べた。
なぜ学校に行けないのか、本人にも分かっていないように見えた。
そして、こうも繰り返した。「そろそろ行かないとやばい」。これも上村さんがこぼしていたという言葉とそっくりだった。
逮捕された3人は高校を中退するなどしていた。誤解を恐れずに言えば、3人にも似たような時期があったはずだ。
川崎市教育委員会によると、市内には長期欠席で指導や支援が必要とされる中学生が157人(2月28日時点)いる。
少年のスマホには、心配する担任教師が時々電話してくるが、この1年は会ったことはないという。
子育ての一義的な責任は親にある。それでも、私は少年の話を聞きながら、献花のために殺害現場を訪れたシングルマザーの言葉を思い出した。
「甘えかもしれませんが、先生も地域の人も、あと一歩、踏み込んで子供に関わってくれたら助かります」
何度目かの取材で、私は少年に登校するよう勧めてみた。
少年はうなずいて、逆にどうしたら勉強ができるようになるか聞いてきた。その反応に驚いたが、本をプレゼントすることにした。
坂本龍馬の立志伝「竜馬がゆく」(司馬遼太郎著)、定時制高校のボクシング部員の姿を描いた「リターンマッチ」(後藤正治著)、元不良少年がさまざまなトラブルを解決する「池袋ウエストゲートパーク」(石田衣良著)。
「古本屋に売ってもいいぞ」と3冊差し出すと、少年は「そんなことしない」と真顔で受け取った。
その後、少年から連絡はない。
上から目線のバカなおせっかいだと思う人もいるかもしれない。
でも、私は笑われてもかまわない。上村さんや少年のような境遇に置かれた子供のために、あと一歩。そう思ってくれる人が少しでもいれば、それでいい。
記者は情熱的な方なんでしょう。その熱が記事によく表れていると感じました。
どう読むかは人それぞれですが、記者が最後に書いている「あと一歩。そう思ってくれる人が少しでもいれば、それでいい」はみんなが思うことでしょう。
が、その「あと一歩」は果てしなく遠い・・・と思います。
その「あと一歩」を地域の人や先生や周りの人でなんとかしようとする動きが世の中にあることを知っていますし、そうなればいいと思いますが、実現は難しいと個人的には思っています。
なぜなら、ものすごく時間がかかるからです。関わる人の日常生活の時間の大半を費やしても足りなくくらい時間がかかるからです。
時間をかけても、約束は守られません。繰り返し繰り返し約束は破られ、反応は薄く、目を離したらまるで言ったことと違うことをしています。
なにゆえ時間がかかるかと言うと「寂しい」という心の隙間が大きいからなんじゃないかと私は推測しています。
ここでは都度、子供の「寂しい」気持ちについて取り上げていますが、私が「子供が寂しい」と思っていると判断する際の材料の1つに相矛盾する言葉や行動があります。
たとえば、記事にあった
同世代の若者が目の前を通り過ぎると「見てるとムカムカする」とにらみつけ、こちらを見たと思うと「何か買って」「カラオケに連れてって」とせがむ。
これなんかもその事例の1つですよね。
通常、まあそんなことがあっちゃならないわけですが、見ているとムカムカしたら近づいて殴りつけるというのが流れでしょう。そうする子供もいます。
しかし、記事に出てくる少年は
「見てるとムカムカする」とにらみつけ ⇔ 「何か買って」「カラオケに連れてって」とせがむ
と実に相矛盾する言葉や行為を同時に見せます。
少年は不登校の理由を「面倒臭い」と説明したそうですが、
「校則が厳しい」
「宿題が出る」
「休むと次に行きづらい」
「授業が進んでいる」
から学校に行かない、行けないけれど、「そろそろ行かないとやばい」と繰り返す。
校則が厳しくて、宿題がイヤなら学校に行かずに、今ある時間を好きことに自由に使ったらいいんですが「そろそろ行かないとやばい」とは思っている。
人は、子供でも大人でも誰でも相矛盾する行動をするものですが、このように同時に、なんの衒いもなく、相矛盾することが即座に出るのは心に隙間が空いている、ボクの言い方でいえば「寂しい気持ちでいっぱい」を表していると推定します。
相矛盾する言葉や行動をすることで「それおかしいぞ」って言われるのを待っているような気さえします。
もしかしたらそれを子供は本能的にしているのかもしれませんね。
「どうしたの?」「おかしいよ」って言ってもらいたくて。
記事の中で記者は
◆なぜ学校に行けないのか、本人にも分かっていないように見えた。
◆理由にならない理由を並べた。
と書いていますが、本人は絶対に自分が「寂しい」「寂しい気持ちでいっぱい」と思っているとは認めません。間違いなく「そんなこたーない」って言うから。
そこにすでに書いた「あと一歩」を地域の人や先生や周りの人でなんとかしようとすることの難しさがあるんじゃないでしょうかね。
本人は「寂しい気持ちでいっぱい」とは認めない、でも接する人は「この子は寂しい気持ちでいっぱいなんだ」とした上で接してやらないといけない。
言い方を変えれば接する人がこうした少年を包み込むような接し方をしないといけないわけです。それには根気がいり、どうしたって時間がかかる。
それを一緒に暮らしている人以外ができるのか。
記事の少年は
母親は数日おきに様子を見に来るが、父親は寄りつかない。
食事は1日1食。
という10代の姉弟の実質的な2人暮らしのようですから、親にその役割が期待できない状態で、誰がその包み込むような時間を提供できるのか・・・
私が悲観的なのはそのことです。
何度目かの取材で、私は少年に登校するよう勧めてみた。
少年はうなずいて、逆にどうしたら勉強ができるようになるか聞いてきた。その反応に驚いたが・・・
これは決して驚くべきことではないです。
そう言ってもらいたいんだから。いつだって誰かにそう言ってもらいたがってる。
もっといえば「一緒に行こうよ」って手を引っ張って連れて行ってもらいたがってるとさえ思いますから。
じゃあといって、先生や地域の人が実際に手を引っ張って連れて行こうとしたらどうなるか?
「行かねーよ」って言うに決まってる。「ふざけんなよ、学校なんか行かねー」ってものすごい反発をする。暴れるかもしれない。
先生や地域の人が3度そういうことがあれば、足は遠のきます。
でも、少年は、よほど行くとこまで言っている子供じゃない限り、たとえば記事に出ている少年の言動を読む限り、この少年は行きたがってる、連れて行ってもらいたがってると思います。
しかし、出てくる言葉は「行かねーよ」。
気持ちがこじれた少年少女(こじれたとはここでは「寂しい気持ちでいっぱい」の少年少女のことです)のこの相矛盾した言葉や行為に延々と付き合う必要が出てきます。
延々と付き合う必要の最初は「話を聞く」ことです。話を聞いてやる。
親への不満や学校への不満、友達や先生の愚痴や勉強のこと、なーにも頑張っていないのにとめどなく出てくる不満や愚痴にまずは延々と付き合う時間が必要です。
「頑張ればええやん」という正論は「寂しい気持ちでいっぱい」の少年少女には通じません。
「寂しい気持ちでいっぱい」の少年少女が勉強に向かえないのと同じです。
頑張るためには、この心の隙間を埋めてからにしてくれって無意識のうちに少年少女は考えているような行動をとるからです。
だから、こうした少年少女に付き合うには、大人にとっては、ある意味では「まともに思えない」彼ら彼女らの話をじっくり聞かないといけない。
決して「まともじゃない」話や不満や愚痴を延々と聞いてやるには、ものすごく面倒で、かなりの根気と覚悟と愛情がいります。
それを他人である地域の人や先生や周りの人でできる人が、いかばかりいるでしょうか。そんな時間をめいいっぱい使ってくれる人がどれほどいるでしょうか。
仮にそうした少年少女の家に家庭教師で行ったとして、2時間の勉強をするとして、少なくとも2時間のうち30分はそうした不満や愚痴を聞く時間に当てなければならないでしょう。
これは記事に出ている少年少女のような事態が進行している子供たちだけでなく、ごく普通に学校にも行き、塾にも行ってはいるが、成績が不振の子供たちにも当たり前にみられる傾向です。
「さあ、勉強しようか」と言う前に、心か身体かどこかはわかりませんが、たまっているものを吐き出してからでないと勉強に向かえない子供たち。吐き出してしまいさえすれば、頑張れる子供たちが数多くいます。
2時間の勉強の前半と後半の間で、前半にやった内容ができていることを改めて示し、「な、できるだろ。お前はできるんだよ。だからやりな。頑張ってやるんだよ」なんて言わなきゃ2時間持たない子供がいっぱいいます。
だから決して他人事ではないんですよね。特殊な不登校の少年少女たちの話じゃない。
子供たちには聞いてもらいたい話がある。誰でもいいんじゃない。あなたに聞いてもらいたい話があるんです。
記事に出ていた少年であれば、事態が進行しているから、だんだんと聞いてもらう人は誰でもイイとなるはずです。とにかく言いたい。
だから、彼らは取材でも、おそらく何でも話してくると思うんです。それは質問するから。聞くからです。聞いてもらいたいところに質問するから、なんだってしゃべる。
でも、記者は聞きたいことを聞いたら、帰っちゃう。そこにまた寂しさは生まれる。
もっともっと話したい、聞いてもらいたい。今日だけのことじゃなく、何年もの間のことを、もっともっと話したいし、聞いてもらいたい。
1年間、担任の先生に会っていなくたって
どうしたら勉強ができるようになるか聞いてきた
そりゃ聞きたいですよ。勉強できるようになりたいもの。
でも、すっごい成績が上がる勉強の方法を聞いても、できないの。やろうと思う気持ちがあってもできない。
そこに手助けがいるし、そばに座る必要も出てくるし、叱咤や励ましもいる。
少年を取材した情熱的な記者は「あと一歩。そう思ってくれる人が少しでもいれば、それでいい」という気持ちで本をプレゼントしたとありました。
坂本龍馬の立志伝「竜馬がゆく」(司馬遼太郎著)、定時制高校のボクシング部員の姿を描いた「リターンマッチ」(後藤正治著)、元不良少年がさまざまなトラブルを解決する「池袋ウエストゲートパーク」(石田衣良著)。
「古本屋に売ってもいいぞ」と3冊差し出すと、少年は「そんなことしない」と真顔で受け取った。
その後、少年から連絡はない。
上から目線のバカなおせっかいだと思う人もいるかもしれない。
でも、私は笑われてもかまわない。上村さんや少年のような境遇に置かれた子供のために、あと一歩。そう思ってくれる人が少しでもいれば、それでいい。
記者を「上から目線のバカなおせっかい」なんて思わない。きっとその少年もうれしかったに違いない。その気持ちは本当にそうだと確信もある。絶対に古本屋なんかには売らないだろう。
でもね、率直に言って、この少年に上記の本は読めないと私は思います。
本を読み通すには力がいります。精神の安定も必要だし、絶対的な安心感もいるし、かつ、そのときに読める本でないと、いかにすばらしい本でも読めない。
生活がせっぱつまった、現実の生活のほうがリアルに追い込まれているような状態のとき、ノンフィクションであろうがフィクションであろうが、バカらしくて本は読めません。
「池袋ウエストゲートパーク」(石田衣良著)は読んだことがないけれど、「竜馬がゆく」(司馬遼太郎著)はとってもステキなぜひ子供たちに読んでほしい本だし、「リターンマッチ」(後藤正治著)はボクも実際に中学生の何人かにプレゼントしたことがある。
けれど、本は子供にあったものじゃなければ読めないんです。そして、時期を間違えば、子供から本を遠ざける要因にもなりうる。
記者が少年に本をプレゼントした「気持ち」は届いたと思うし、うれしかったはずだけど、本を読んで「オレも・・・」と思えるまではならないであろうと推測します。
それは決して意地悪な見方をしているからではありません。消化できないものを与えられると、すばらしいものでも、決してすばらしい結末にはならないって話です。
親だって子供に与えるときに、すばらしいものだから与えるというのではなく、その子にあったものを選んで与える必要がある。
小学生に世界文学全集を与えて、貪るように読む子供もいれば、そうでない子供もいるように。なにかを与えるには素地がいる。
その素地がいかなるものかを知っているのは、話をよく聞いている人でしかありえない。
この少年には、今は「竜馬がゆく」でも「リターンマッチ」でもなく、漫画の井上雄彦さんの「スラムダンク」や、ちばてつやの「おれは鉄兵」とかを読んでほしいなあと個人的には思います。
ただそれが読める精神状態になるには、誰かが延々と少年が話す「まともではない」相矛盾する話を延々と聞いてからになるでしょう。
とはいえ、ボクはこの少年になにもしてやれていないので、とやかく言う資格はないってことは自覚しています。記者の行為を批判するつもりも毛頭ありません。
ただ、このGW中にもしここに書いたことを読んでくれた親の方がいるなら、あなたがあなたのお子さんにいつもより時間を取って、話したがっているあれこれのことを聞いてやってほしいと願うばかりです。
あなたが話したい子供の将来のことや進学のことや勉強のことではない、子供が話したがっている「どーでもイイ話」をめいいっぱい時間を取って聞いてやってほしい。
それが明日以降の子供の活力になると信じるから。
日頃からそういう子供の「どーでもイイ話」を聞きまくっている親の方は、このGW中はめいいっぱい勉強させましょう。
『10の鉄則』の感想、続々と・・・
中1・小4 ぴろ母さん
ようやく、遠方にいる主人にも読んでもらい話しをするところまでいきました。
勉強することが何のためになるのか、何のために何を頑張るのか、具体的にすることで子ども自身の意志で前へ進んでいくことができるようになるんだな、と感じました。
そして、親はとにかく「見る」ことが大事なんだと。
まるで、お座りからハイハイ、一人歩きまでの過程をさりげなく手助けしながら見守っていた頃のようだと思いました。
子供を「見る」は、親技では「子供を観る」ですよね。
「見る」は、ただ単に見る、しかし「観る」は【明確な意図や目的を持って見る】んですよね。観察も観光も観賞も【明確な意図や目的を持って見る】ものです。
だから、ぴろ母さんにも「見る」ではなく「観てほしい」と思います。子供は自分のことをちゃんと「観て」くれている人の言葉を聞きます。
「オレのことなんにもわかっちゃいいないじゃないか!」そう思える人の言うことは一切聞く耳を持たなくなる。
イイ勉強法も、勉強の進め方も、レベルの設定も、すべては子供を「観る」ことから始まります。もちろん前向きに進む一歩目も。
お世辞やおべんちゃらを言って子供をノリノリにするんじゃない!「観た」事実からノリノリにしていく。
子供の事実や実態に基づかない言葉に決して子供は踊りませんから。
真に子供を「観た」ら、そこに課題が見えるハズです!
[算・数] 7日間を終えての感想
ぴろ母さん
◆明らかに今回の成果と思うことは何ですか?
本筋と少しずれるかもしれませんが、娘の解答速度の遅さは「書くこと自体がかなり遅い!」ということがわかりました。
(省略)計算や読むスピードが遅いのだとばかり思っていました。こんな理由もあるのかと驚きました。これで対策がたてられます。
内容については、私自身が褒めることを抵抗無く出来るようになったことです。そして、塾テストの成績に対し、出来たところを褒め、出来なかったところについては注意をするのではなく、対策を立てている自分がいることです。
なるほど親技かぁ、と思いました。
◆子供のそばで勉強を見るってやっぱり非常識でしょうか?
非常識だとはもともと思っていませんでした。ただ、物理的になかなか難しいところもあります。毎日張り付くことはできなくても、定期的に1対1で見るようにしようと思いました。
◆お子さんと一緒に勉強するのは楽しかったですか?
ノリノリの時は楽しかったです。演習中のささやきで、褒めると「うん、うん」とうなずきながらとても嬉しそうでした。
まだまだかわいい子供だったと思い出しました。途中トラブルが発生して切れそうになりましたが、相談メールを送る余裕の無いままとりあえず解決しました。
問題になっていることの原因がわかった→だから対策が立てられますという話は書くとカンタンですが、なかなかできないことです。
それをするためには、そばについている人の「観察眼」がいる。ただそばについているだけでは成績は上がらないということです。
お仕事などでお忙しいと思いますが、ぴろ母さん、時間が許す限りそばで見て、ぜひすばらしい「観察眼」をこれからも発揮してください! もっとよくなりますよ!