こんにちは、ストロング宮迫です。
さあ、新学期! 新しいクラスとメンバーはどうだったかな?
子供たちの一番の関心事ですな。
ウチの子も4月から家を旅立ったんですが、息子が持って行かなかった冬のパジャマを見て我が嫁が泣いてる(+_+)
どうも寂しいらしい。
上の子の時はそんなことはあまり言わなかったと思うんだけどなあ。まあ、同じ息子でも「一人暮らし」に対する心配の度合いが違ったり、家の中に男の子がいなくなり女の子だけになった雰囲気の違いもあるのかもしれません。
もしかしてパジャマを見て泣く我が嫁に「私も同じです」と共感される方がいるかもしれないので、まるで共感されないであろう点についても記しておきます。
あのね、我が嫁は息子の高校の卒業式にね、行かなかったんです。
卒業式ですよ!
まあ、普通は行きますよね?
どうも仕事が忙しかったらしく、何とか都合もつきそうだったけれど、息子と相談したら「来なくてもイイよ」ってお墨付きをもらったらしい。
お墨付きをもらっても、「普通は」行きますよね、卒業式だから。
でも、これ幸いと我が嫁は行かなかったんですよ。すばらしい!
その事実もボクが「卒業式どうだった?」って聞いて、初めてわかった。もし聞かなかったらスル~して3年後くらいに言ってたはずです。
どうです、共感できますか?
できませんよね。あなたが正しい!
だからといって、ボクも「じゃあオレが行くわ!」とはならない。
だからといって、子供に対する愛情がないってわけじゃないんですよ。
どうも考えるに、ウチの夫婦は「学校の式や行事」というものに対して、なにかが欠落しているらしく、すこぶる参加率が悪い。
運動会なんて「席取り」に並ぶどころか、最初から最後までまともに見たことはないし、「遅刻して早退」を繰り返し、嫁なんてこの15年間、土曜開催だった運動会には一度も行ってないし、学級懇談会も授業参観も含めて学校の行事はほとんど欠席だ。
ボクが授業参観に行ったことがあるのは、よその子を見に行くからだから。
だから「ねえ、聞いた? 今度の担任の先生は・・・」とか「今度のクラスは・・・」なんていう貴重な情報が同級生のお母さんからもたらされたことは一度もない。
だいたい「あの方、誰だったか、名前が思い出せないわ」っていつも言ってるもの。頼りになるのはいつだって子供からの情報だけだ。
だけど部活の試合は練習試合も含めてボクは皆勤賞だったりするし、卒業式にも行かなかった母親がパジャマ見て涙だから、もう滅茶苦茶なんですよ、我が家はね。
だからご安心ください、あなたはよく頑張ってるし、よく時間のやりくりをされていると保証しますよ、ウチよりは断然ね。
まあ、いろんな形があるからね。いろんな形があってイイと思うし、ボクたちはボクたちなりで、できることを話し合ってやってるだけだから。ただ手本にはならないだけでね。
ただこれは負け惜しみに聞こえるかもしれないけれど、行事には参加しなかったけれど、「子供を観察する」ことには惜しみなく時間を割いてきた(自分たちの知りたいと思う範囲でだけだけど)という自負はある。
学級の様子は知らないけれど、部活の様子はわかるとか、今悩んでいることはこれだというのは把握してきたつもりなんだけど…
それはちゃんとできていたと言い張らなくても、それができていたかどうか、こちらの意図が伝わっていたかどうかの答えが出るのは、まもなく出るでしょう。
子供を外に出して終わりとはならないけれど、第1波として送り出してみて、悔いはない。嫁にも聞いたけどやっぱり「悔いはない」らしい。やれることはやったからさ。できなかったこともあるけれど、それはボクらの来世の課題だ。
もう10年位前にここで紹介したことがあるんだけど、新学期に向けて、親の方のために大前研一著「親が反対しても、子供はやる」の著書を再掲しておきます。
私は、愛情の基本は時間をどのくらい家族のためにつくるかだと思っています。
言葉だけで、「愛しているからね。すまない、おまえ」などと言っているだけでは、ダメなんです。
家に帰ってくるのはいつもみんなが寝てしまってからで、家族とろくに話もしないでは意味がありません。
家族に対する責任、自分自身に対する責任、社会に対する責任、それから勤めている以上は会社に対する責任、この4つの責任は常にイコールであり、どれが欠けてもバランスのとれたいい社会人にはならないのではないでしょうか。この15年間というもの、私はこの4つに対して均等な時間配分をずっと心がけてきたつもりです。
耳が痛いですなあ・・・
同じくもう10年以上昔のこの週刊親技創刊時のこの時期にスティーブン・R・コヴィー著「7つの習慣」の一節を紹介しています。
どの役割もそれぞれ重要であることには変わりがない。
1つの役割が成功したからといって、ほかの役割が失敗してもいいということにはならないのだ。
仕事の成功で、結婚生活での失敗を補うことはできない。
地域社会の成功で、親としての失敗を補うことはできない。
どの役割においても、その成功・失敗が、ほかのすべての役割に影響を及ぼすのである。
このことを認識していないと、特定の役割に熱中しすぎて、ほかの役割を無視してしまいかねない。
人生の苦痛の多くは、1つの役割において成功しようとするあまり、もっと大切かもしれないほかの役割を犠牲にすることから生まれる。
イイ本っていうのは、何年たっても、いつ読んでも、何度読んでも、学びがありますなあ。
私たち親は「父親」「母親」であると同時に、「夫」「妻」でもあり、かつ「会社員」「自営業者」でもあり、「地域活動」や「家事」「自分の趣味」「友人」「人生を楽しむ」「PTA役員」…etc 人によって違うけれど、複数の役割を担って存在しています。
そして、その役割に対する「責任は常にイコールであり、どれが欠けてもバランスのとれたいい社会人にはならない」と大前さんは言い、「私はこの4つに対して均等な時間配分をずっと心がけてきたつもり」とおっしゃる。
スティーブン・コヴィー氏は「今自分が果たすべき役割については、バランスの大切さ」を強調したうえで、たとえば「地域社会の成功で、親としての失敗を補うことはできない」と言い、「どの役割においても、その成功・失敗が、ほかのすべての役割に影響を及ぼ」し、1つの成功で他の失敗を補うことはできないと指摘する。
親技で子供に勉強をさせるときに、子供に「勉強をしていただく」形をとると、うまくいかないと繰り返し書いてきましたが、これなんかは「勉強で成功しようとするあまり、もっと大切かもしれないほかの役割を犠牲」にした結果、そもそもの目的の勉強もうまくいかないという「苦痛」を生んでいるように思えます。
子供には「勉強だけ」でなく、「お手伝い」もさせればイイ。「たった1つの役割」に限定する必要はない。「人生の苦痛の多くは、1つの役割において成功しようとするあまり、もっと大切かもしれないほかの役割を犠牲にすることから生まれる」のだから。
先に紹介した「親が反対しても、子供はやる」で、大前研一さんはハッキリと書いてる。
私は、愛情の基本は時間をどのくらい家族のためにつくるかだと思っています。
そのうえで、親の果たすべき役割を書かれています。
親の最も大切な役割は、自信のない子供たちに生きていく自信を与えることです。
「成績がよくなければダメだ」
「いい大学に受かりなさい」
「宿題を早くやりなさい」という文脈のなかに、生きていく自信につながることばがあるでしょうか?
親技では「子供の味方になる」という言い方をしていますが、特に今勉強でつまづいている場合、その過程を無視して結果だけを子供に求めていくと、子供の反発はひどくなります。「子供たちの味方になる」を真剣に考えている方にはぜひ一度は読んでいただきたい本ですね。
30歳代、40歳代、私たち親は手探りで子育てをやっています。今やっていることは、60歳代、70歳代になって「あーーよかった」「あー失敗だった」とわかるのでしょう。
ゆえに、ゆえに不断の努力と勉強が「親」にも求められる。学ぶのは子供だけじゃない。「勉強するもの」だけが小さなミスを大きな糧にできるのですから。
さあ、新学期、いくつかの役割を頑張りますよ!
『10の鉄則』の感想、続々と・・・
小5 まどぴょんさん
メルマガを読んで想像していた内容よりもっと深いものでした。耳が痛い話ばかりで私自身の覚悟のなさを思い知りました。
子供が原因ではなく親である私自身の中に原因があると気づかされてしまった以上、その責任の重さと自分自身が見ない様にしていた部分を見つめた後でなければ解決策が見えてこないことを痛感しています。
鉄則が届いてから1ヶ月、仕事の忙しさを理由に避けていた自分の内面を見つめる作業を今月中に行いたいと思います。
その結果をまたご報告します。
思い当たっってじっくり考えてみるのも手ですが、たった1つだけ決めてすぐに実行してみるのがおススメです。
もしかしたらできるのはそれ1つになるかもしれない。でも、以前よりは1つは積み増したということ。前進とはその積み重ねだと思うんです。拙速を尊ぶべし!
小2 michikusaさん
続けるための行動のコントロール方法が、子供向けに具体的に示されていて「なるほど。」と思った。
また、親の価値観を子供に押し付けていた部分がかなりあったことを感じ、反省した。
解決策は見つかりそうです。ありがとうございました。
1年ってあっという間に過ぎていきます。やるべき学年にやるべきことをやっていないと、のちのち全部借金となって親に降りかかってきます。
でも「やるべきこと」って子供によって千差万別。見極めと観察と実行。親のやることは山ほどあります1