こんにちは、ストロング宮迫です。
この前、あるお母さんから子供の相談のような話を聞いたんですが、話しているうちに「救われるべきは子供ではなく、このお母さんである」ととても強く感じたことがありました。
具体的すぎるのでその内容はここでは書きませんが、河合隼雄先生の著作からそれに該当すると思われる箇所を引用して皆さんの考える材料にしていただきたいと思います。
あなたの子供がどうか?という問題意識とともに、あなた自身はどうか?とも問うていただきたい。
すでに出版から40年以上経ちますが、相変わらず版を重ねて読まれ続けている「コンプレックス」という本からです。
少し長いですが、端折るとわかりにくくなるのでドーンといきます。あなた自身について、そしてあなたのお子さんに当てはめて読んでみてください。どうぞ!
・・・我が国の教師の間でも、劣等感ということはよく使用される用語であるが、反面、誤解したり、浅い理解しかされていなかったりすることも多いので、劣等感について少し考えをのべてみる。
先ず、何かについて劣等であること、あるいはその劣等性を認識することと、劣等感コンプレックスとは異なるということである。
たとえば、仲間が集ってソフトボールをしようというとき、「僕は下手だから」というので応援にまわったり、ボールひろいをしたりして楽しく共に時間をすごす人は、ソフトボールについて「劣等」であり、それを認識してはいるが、劣等感コンプレックスをもっていない。
この場合、下手なくせに無理にピッチャーになりたがったり、失敗したことで何時までもぶつぶついったりする人の方が、むしろコンプレックスをもっているといえる。つまり、この人達は劣等であることを認めていないのである。
コンプレックスというかぎり、それは感情によって色どられていなければならない。感情のからみつきのない、自分の劣等性の認識は、むしろコンプレックスを克服した姿である。
ソフトボールにまつわるコンプレックスは、実際にソフトボールの練習をして、上手になることによって克服するか、自分がソフトボールを出来ないことを認めることによって克服するかという方法によって、解消することができる。
実際にできることをできないと思いこんだり、思いこんでいるためにのびのびとできずに失敗して、ますます駄目だと思う、このようなのを「劣等感の悪循環」とアルフレッド・アドラーは呼んでいる。
この悪循環におちいっている人は、どこかで立上るきっかけをつくってやらねばならない。しかし、この場合は、もともと力のあるときなので、比較的援助がしやすいものである。
ところが、もともと力の無い場合はどうするのか。
たとえば算数のできない子に、いくらきっかけをつくってやろうとしても、どうしても算数能力がない場合はどうすればよいのか。
この問題は深刻である。
「人間は努力すれば何でもできる」と信じている人は幸福だ。われわれのように対人援助の仕事に従事しているものは、人間の能力に限界があり、われわれの抗し難い不可解な力が人間に働いていることを、いつも認めさせられるのである。
どう努力をしても知能が低いままの子供がいる。交通事故で足を失った人は、その足をとり返すことはできない。われわれは時にいいようのない絶望感におそわれる。このような問題と必死に取り組まなかった人は、安易な楽観論をもつことができるだろうが。
この問題に対して、先程のソフトボールの例をかりて考えてみる。
ところで、ソフトボールができないことに対して、なぜ一方はコンプレックスをもち、一方はコンプレックスをもたなかったのだろう。
この場合、平気で自分がソフトボールのできないことを認めた人は、それを認めることによって、その人の人格の尊厳性が失われないと感じているからである。
つまり、そのことについての劣等の認識は彼の自我の中に統合されており、何も安定をゆさぶられないからである。このことはわれわれに大きい示唆を与える。
しかし、金の無いことについて、社会的地位の低いことについて、あるいは、知能の低いこと、不具であること、これらのことを認めつつしかも人格の尊厳性を失わないということは大変なことである。
あるいは、ある人がこのような劣等の認識を行なおうとするとき、それを援助する教師や治療者自身が、金や地位や名誉と関係のない人間存在の尊さを確信していなければならない。
コンプレックスは自我によって経験されていない感情によって成立しているという意味において、それは単純に「劣等感」などと名づけられるものではない。
先に示したように、はっきりと劣等であると認識できた場合は、それは問題でもなく、コンプレックスでもない。このような意味で、劣等感コンプレックスは、優越感も必ずその中に混入させているものだといってよい。
ソフトボールができないというとき、「いやできる筈だ」、「あんなことで喜んでいるのは馬鹿な人間だ」、「僕もひとつかっとばせたら」などと、言語化し得ない感情を味わう筈である。
それが複雑で解らないから、いらいらもするし、しなくてもよいことをしてみたりする。
自我にある程度意識されるのは、その劣等感の方ではあるが、そこに優越感が微妙にいりくんでいるところが、コンプレックスのコンプレックスたるゆえんである。
自分は何も価値のない人間だからと自殺を図った人が、少し元気になってくると、自分と同じように悩んでいる世界中の人を救いたいなどということがある。
死ぬより仕方がないという程の劣等感と、世界の悩める人を救ってみせる程の優越感が共存しているところが、劣等感の特徴である。そこにおける強い判断のゆれが、この人を自殺という行動に追いやるのである。
劣等感と優越感の微妙な混在――結局は劣等感コンプレックスといってよいと思うが――、それを基にして、もうひとつの奇妙なコンプレックスが派生する。
先にあげた自殺未遂の人のように、このような人は、他人を「救いたがる」傾向が強いのである。
ともかく、「有難迷惑」ということが、ぴったりとする行為の専門家である。
一寸でも困っていると、不必要に助けにきたり、同情したりしてくれる。困っていないときは、何か悩みがないか探しだしたり、時には作り出したりしかねまじい程の親切さである。
このようなコンプレックスは、メサイヤ・コンプレックスとよばれている。
確かに、他人を救うことは善いことであるだけに、これは非難されることが少ないので、これを克服することは難しいことである。
他人の為につくそうとする善行の陰に、劣等感コンプレックスの裏がえしが存在していることを、自ら認めることは辛いことである。
カウンセラーになって、悩める人のためにつくしたいと思う人は、先ず自問しなければならない。「先ず救われるべき人は、他人なのか、それとも自分なのか」と。
劣等感コンプレックスは重要なものであり、かつ理解しやすいものであるので、ここに簡単に説明したが、これによって、コンプレックスに対する対処の仕方についても、ある程度の考えをもつことができたと思う。
このことについては、第二、第四章においてくわしくのべることにするが・・・
いかがでしょうか。
もう内容についての説明の必要がないでしょうが、
少しピックアップしておくと、
劣等であること、あるいはその劣等性を認識することと、劣等感コンプレックスとは異なる
と。
その上で、「自分の劣等性の認識は、むしろコンプレックスを克服した姿である」として事例として以下が挙げられる。
ソフトボールをしようというとき、「僕は下手だから」というので応援にまわったり、ボールひろいをしたりして楽しく共に時間をすごす人は、ソフトボールについて「劣等」であり、それを認識してはいるが、劣等感コンプレックスをもっていない。
この場合、下手なくせに無理にピッチャーになりたがったり、失敗したことで何時までもぶつぶついったりする人の方が、むしろコンプレックスをもっているといえる。つまり、この人達は劣等であることを認めていないのである。
勉強面でいえば、成績が取れていないのに最難関校に行きたがったり、ミスしなければもっと取れたのにとか試験官がうるさくて気になったと言い訳したり…etcなんかが挙げられるでしょうか。
「できない」ってことを認めるのはなかなか難しいってことですよね。小さい子供がゲームして負けても認められず、泣きわめくっていうのもそうでしょう。
小さい子はもとより最近は小学校高学年や中学生でも、負けを認めたり、相手がすばらしいと素直にいえない子供も多い。自分の劣等性が認識できないわけですな。
ちなみに50歳を前にしたボクもヘンに絡まった「負けず嫌い」なところがあって「認められないこと」もあって、子供たちを責めることはできないんだけれど(* ̄ノ ̄)
どうしても言い訳したり、妙な理屈で相手を責めたりしがちです。
しかし、
はっきりと劣等であると認識できた場合は、それは問題でもなく、コンプレックスでもない。
このような意味で、劣等感コンプレックスは、優越感も必ずその中に混入させているものだといってよい。
この「劣等感コンプレックスに優越感が混入」した結果、人は奇妙なことを口走ったり、感情を爆発させることがある。
ソフトボールができないというとき、「いやできる筈だ」、「あんなことで喜んでいるのは馬鹿な人間だ」、「僕もひとつかっとばせたら」などと、言語化し得ない感情を味わう筈である。
それが複雑で解らないから、いらいらもするし、しなくてもよいことをしてみたりする。
あなたのお子さん。もしくはあなた自身にこうした現象は出ていないでしょうか?
勉強面で言えば「あいつは勉強ばっかりして性格が悪い」っていう言い方が一般的で「ガリ勉」なんていうレッテルもそれに当てはまるのかもしれません。
「はっきりと劣等であると認識」できずに、「いやできる筈だ」、「僕もひとつかっとばせたら」という優越感が混入して、それらがうまく処理できずに、特に子供は言葉で表せないから、イライラしたり、感情を爆発させる。
子供が親にウァーと反抗したあとで妙に甘えてくるというサイクルを親子で繰り返している場合もよくありますが、これは子供が「言語化し得ない感情を味わ」っているからといえないか。
両極端な「劣等感と優越感の微妙な混在」はそのまま放置されれば「それを基にして、もうひとつの奇妙なコンプレックスが派生する」、そのもっとも究極の姿が「死ぬより仕方がないという程の劣等感と、世界の悩める人を救ってみせる程の優越感が共存している」ということになるのでしょう。
劣等感コンプレックスの克服の道は2つで、「上手になることによって克服する」か、「出来ないことを認めることによって克服する」か。
上手になる努力はしたくないけれど、できないことを認めることはしたくないっていうのは病をこじらせる最大の要因になるといえましょうか。
2つの道でなかなか難しいほうの「出来ないことを認めることによって克服する」道には「それを認めることによって、その人の人格の尊厳性が失われないと感じ」られる環境がいる。
しかし、金の無いことについて、社会的地位の低いことについて、あるいは、知能の低いこと、不具であること、これらのことを認めつつしかも人格の尊厳性を失わないということは大変なことである。
あるいは、ある人がこのような劣等の認識を行なおうとするとき、それを援助する教師や治療者自身が、金や地位や名誉と関係のない人間存在の尊さを確信していなければならない。
子供がそう認めるのはなかなか大変で、周りの人間がそうできるようにするためには周りの人間も「人間存在の尊さを確信していなければならない」。
親は子供に対して「人間存在の尊さ」を言葉では説き、口にするけれど、実際に子供にやっていることは「人間存在の尊さ」よりも「成績の良し悪し」や「行く学校の偏差値」で価値を測るような言動をしてることも多々ある。
「そんなんだったら受験なんかやめなさい」と繰り返し言いながら、やっぱり諦めきれずに受験をしてみたり、子供の現状が受け入れられずに子供に合わない勉強をやらせたりする。家に帰れば、気になる勉強の話ばっかりしてたり。
でも、小学生も中学生も高校生だって大学生だって、聞いてもらいたいことや疑問に思うことが日常生活ではいっぱいあるわけです、勉強のこと以外でね。
しかし、実際は限られた時間で優先順位をつけると、勉強の話をすることになる。実際はどうかは別にして子供にはそこに「人間存在の尊さ」については親からは感じられない。
感じられなければ、出来ないことを認められず、負けも認められず、「いやできる筈だ」、「あんなことで喜んでいるのは馬鹿な人間だ」、「僕もひとつかっとばせたら」などと言語化し得ない感情を味わい、「もうひとつの奇妙なコンプレックス」へ派生させていく。
子供が暴れる、暴言を吐く、いつもイライラしているなんかはその表れの一端である場合も多いでしょう。
でも親は「子供が・・・」と思ってる。でも、暴言も暴れもイライラも引きだしているのは親の言動の方かも?っていう視点は一度は考えてみる必要があるでしょう。
ある人がこのような劣等の認識を行なおうとするとき、それを援助する教師や治療者自身が、金や地位や名誉と関係のない人間存在の尊さを確信していなければならない
しかし、親がそれに気づいておらず、かつ親自身も劣等感コンプレックスを持っていれば、話はますますややこしくなっていく。
カウンセラーになって、悩める人のためにつくしたいと思う人は、先ず自問しなければならない。「先ず救われるべき人は、他人なのか、それとも自分なのか」と。
これが冒頭の「救われるべきは子供ではなく、このお母さんである」にあたり、子供より先に親のあなたが劣等感コンプレックスから離脱しなければ、問題は解決しないのではないかと。
「人生は1勝9敗でいい」という題名のカジノオーナーの本がありましたが、
そう頭で思い、口では言うけれど、実際に行動、子供に対する親の行動が「全勝思考」になってないか。日々の負けをちゃんと認めているのか。認められているか。
ユニクロの柳井正さんも「一勝九敗」という本を出しています。「10の施策のうち9が失敗であった」と。「人生は一勝するためにあり」と。
10戦して9敗しても野垂れ死ににならずに1勝できるのは「負けを認める」からでしょう。負けを認めないと1勝さえできない。
なぜなら、それは正しい現状分析をするために絶対的に必要なものであるから。親の「これくらいはできて当たり前」という感情や認識は子供の勉強を混乱させる要因にしかならないから。
「出来ないことを認める」のができないのは子供だけじゃなく、親や大人も一緒。「出来ないことを認める」ことが克服の道であり、工夫を考える道を開く。できないけど、どうする?ってなるわけだから。
できないのに、できるはず、やればできる!と叱咤しても、やっぱりできないからね。
「劣等感と優越感の微妙な混在」の中で漂っている親子がどんどん増えていることが河合隼雄先生の本が出版から40年以上経っても読まれ続けている要因なんでしょう。
改めて読むと、子供自身の劣等感コンプレックスが親の劣等感コンプレックスによってさらにきつくなっているのが今ではないかと想像されます。
救われるべきなのは子供ではなく、まずは親なのかもしれません。
親がそれに気づくチャンスは、子供に勉強をさせようとするときに、子供の姿勢や態度を見たときに感じるもの、見るものによってです。
子供は親の鏡であり、親は子供の鏡です。実に正確に左右対称に自分を写しだしている。だから子供を見るってことは自分を見ることなんですよね。自分のことは自分では見えないからね。
「どうしてできないの?」っていう問いは、あなたに返ってくる。
「一勝九敗」でも「二勝八敗」でも「三勝七敗」でもいいけれど、「出来ないことを認める」のは私たちの永遠のテーマ。それは克服しなければならない。
克服すためには「それを認めることによって、その人の人格の尊厳性が失われないと感じ」られなければならない。
その環境があなたに、そしてあなたのお子さんにあるかどうか。そこですね。
【参照メルマガ】河合隼雄著作集『流動する家族関係』より
塾の担任の先生からは「精神的に幼い」「難関校を目指すのは難しい」「中高の6年間で大学受験に向かって鍛えてくれる中堅校を目指しては?」と言われました。塾の先生から見ると、小学校5年生の夏過ぎには「この子はもう伸びない」とわかるような子がいるものなのか?
『10の鉄則』の感想、続々と・・・
小6 きょんさん
耳が痛いお言葉ばかりでした。受験まであと3ヶ月です。。。
残りの3ヶ月を無駄にしたくなくて、10の鉄則を購入しました。正直、今からでもまだ間に合うか不安です。でも、ここはひとつ前向きに、後悔しない3ヶ月にしたいと思っております。
かなり行き詰まっていたところに、ストロングさんのブログと出会いました。(多分皆さんもそうだと思いますが。。。)
ブログや、新勉強の常識を読ませていただいて、目の前が少し開けてきました。解決策を見つけてみようと思ってます。
間に合うか、心配なことでしょう。焦った時こそ、できることを1つ1つやる。もうこれしかりません。
今日は1点でも点数が積み上がったか?
この1点に集中して目の前のことをやりましょう。目の前の受験に全力を尽くす、これは当然として、今取り組んでいることは受験後も続くのです。
次学年、新学年につながる受験生活を忘れずに!!やったことだけが子供の心底に自信として蓄積されるのですから。
小6・小4 ようこさん
頭ではなんとなく、今まで試行錯誤してきたことが整理できたといった感じです。
このやり方でいいのだろうかと自分(親)に自信がなかったのですが、はっきりしたような感覚です。
なんか、子供がかわいそうとか、この教育事情を恨んでみたり、うちの子はこのくらいで限界か~(親も親だし・・・)と諦めてみたり。私立受験は下の子はやめておこう。こんなにつらいんだもん。。。。と
とにかく、田舎に住んでいて、私立受験用の進学塾にも通えず、私と子供だけの地道な勉強を取り組んできました。子供自身も、切磋琢磨しあえる仲間もいなくて、孤独な競争って感じで取り組んでいました。
そんななかみつけた「10の鉄則」に少し勇気をもらいました。
人を恨まず、環境を恨まず。与えられたその環境でベストを尽くす者に次の道は開かれる、そうストロングは思っています。
多くのライバルに囲まれて戦うメリットもあれば、デメリットもある。
メンバーさんには孤独な戦いをしている方もいっぱいいるし、あえてそういう道を選択する方も多くなってきました。
学ぶ人間はどんな環境でも学び、きつい環境にいるものは、工夫をしなければ生きられない。工夫をせざるを得ない環境、素晴らしいじゃないですか!!ファイト!