こんにちは、ストロング宮迫です。

この本これからの「正義」の話をしようが今人気だそうですね。

※この毎日親技は2010年6月17日に配信したものです

NHK教育テレビで2010年4月4日から6月20日まで、毎週日曜18:00から全12回で放送されている『ハーバード白熱教室』、そのハーバード大学史上最多の履修生数をほこる超人気哲学講義の待望の書籍化だそうです。

この本の内容紹介には次のようにあります。

1人を殺せば5人が助かる状況があったとしたら、あなたはその1人を殺すべきか?

金持ちに高い税金を課し、貧しい人びとに再分配するのは公正なことだろうか?

前の世代が犯した過ちについて、私たちに償いの義務はあるのだろうか?

つまるところこれらは、「正義」をめぐる哲学の問題なのだ。社会に生きるうえで私たちが直面する、正解のない、にもかかわらず決断をせまられる問題である。

哲学は、机上の空論では断じてない。金融危機、経済格差、テロ、戦後補償といった、現代世界を覆う無数の困難の奥には、つねにこうした哲学・倫理の問題が潜んでいる。

この問題に向き合うことなしには、よい社会をつくり、そこで生きることはできない。

なんだかおもしろそうでしょ?

カンタンにいえば、「究極の選択」を決断をするために考えておくべきことという感じでしょうか。

時代の空気が重苦しい昨今、今の子供たちが大人になった頃は、こうした問いをすぐ目の前で問われ、すぐに答えを出さねばならない時代になっているかもしれません。

ボクは、この本を読んでいて、司馬遷の「天道、是か非か」を思い浮かべました。

ご存じ「史記」を著した司馬遷は、紀元前の人で、戦いで敗北し相手に投降した友人の李陵を宮廷の中で弁護したため、帝の逆鱗に触れ、宮刑(腐刑)、つまり性器を切り取られる、むごたらしい去勢の刑罰を受けました。

正当なことを正当に主張して刑に処された司馬遷は、何物をもたのまず、みずからの手によって、人間の正当な歴史を書きのこそうと決意した。

一体、腐刑を受けた人士は、生きながらえるべきではないのに、この決意のため、司馬遷は、あらゆる恥辱にたえて生きのび、懸命に書きつづったのが「史記」である。

その司馬遷が「史記」列伝冒頭に掲げたのが以下の内容です。

「天は決してえこひいきしない、常に善人に味方する」と言う。

それが本当なら、伯夷・叔斉はなぜこのような悲惨な最期を遂げなければならなかったのか。

それとも二人は善人ではなかったというのか。仁徳を積み、行いを清くして、それでも餓死した。

また、孔子の弟子七十余人のうち、孔子は顔回を最も高く評価していた。しかし、その顔回は食うに事欠き、ついには若死にしてしまった。

「天は善人に報いる」とは、そもそもどういうことなのか。

反対に、罪のない者を殺し、人肉を食らい、徒党を組んで天下に横行した盗跖は寿命を全うした。盗跖がどんな良い行いをし、どんな徳があったのか。

これらは甚だしい例であって、近ごろはもっと酷いではないか。人の道に外れて平気で法を破り、それでも終生逸楽し富み栄える者がいる。

その一方で、善良な人間が禍災に遭遇するのは数え切れない。

善人が悲惨な最期を遂げ、悪人が栄える・・・現代でも、思い当たることがある人もいることでしょう。

ホントどういうことなんでしょうか?

こうした答えのない問いを身近な例や事件を挙げて、子供たちにときに問うてやるのは、答えが間違いなく存在する勉強を頑張っている子供たちには非常に有意義なことだと思います。

答えのある勉強を真面目に取り組んでいる子供たちこそが、こうした問題を真に考えられると思うからです。

中島敦の李陵 [新潮CD]には、去勢された司馬遷について、

常々、彼は、人間にはそれぞれその人間にふさわしい事件しか起こらないのだという一種の確信のようなものをもっていた。

これは長い間史実を扱っているうちに自然に養われた考えであった。

同じ逆境にしても、慷慨(こうがい)の士には激しい痛烈な苦しみが、軟弱の徒には緩慢なじめじめした醜い苦しみが、というふうにである。

たとえ始めは一見ふさわしくないように見えても、少なくともその後の対処のし方によってその運命はその人間にふさわしいことが判ってくるのだと。

司馬遷は自分を男だと信じていた。文筆の吏(り)ではあっても当代のいかなる武人よりも男であることを確信していた。

自分でばかりではない。このことだけは、いかに彼に好意を寄せぬ者でも認めないわけにはいかないようであった。

それゆえ、彼は自らの持論に従って、車裂(くるまざき)の刑なら自分の行く手に思い画くことができたのである。

それが齢五十に近い身で、この辱(はずか)しめにあおうとは!

歴史を鑑みれば、その人間にふさわしい事件しか起こらない。

しかし、その「腐刑」が自他ともに「男」と信じるこの私にふさわしいというのかと。

中島敦は書きます。

痛憤と煩悶(はんもん)との数日のうちには、ときに、学者としての彼の習慣からくる思索が――反省が来た。

いったい、今度の出来事の中で、何が、誰が、誰のどういうところが、悪かったのだという考えである。



司馬遷は最後に忿懣(ふんまん)の持って行きどころを自分に求めようとする。

実際、何ものかに対して腹を立てなければならぬとすれば、結局それは自分自身に対してのほかはなかったのである。

だが、自分のどこが悪かったのか?

ハッキリしているのは、2000年以上前に書かれた司馬遷の史記が今でも書店で買え、現代の私たちが読めるということ。

ボクの座右は「天網恢恢疎にして漏らさず」。

朝日新聞社の「kotobank」には「天網恢恢疎にして漏らさず」とは

《「老子」73章から》
天の張る網は、広くて一見目が粗いようであるが、悪人を網の目から漏らすことはない。悪事を行えば必ず捕らえられ、天罰をこうむるということ。

とある。

これは果たして本当なのだろうか?

中島敦の李陵 [新潮CD]はぜひ日下武史さんの朗読で聞いていただきたい。李陵も司馬遷も日下武史さんの朗読で見事に立体化される。

日下さんの幸田露伴「五重塔」も、なかなかいいけれど、やっぱボクは「李陵」に軍配を上げる。ぜひぜひ。

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うれしい報告

ノリ勉英語を現在進行中の中2ののんままさんのメールに

多分テスト範囲の構文は100以上になるので、昔の私なら結局、体力頼みの勉強になりそうなので、本当に大事な構文に絞って例文を作れば良いかなと、後から思いました。

とありました。

プリントなんかにさまざまな例文が書かれているんでしょうなあ。

それを見れば誰でも引きます。できるわけないだろ!なんて。

ただ、のんままさんにも書いて送ったんですが、英語の基本となる構文ってそんなにたくさんはないハズ。

たとえば、ざっくりですが、「Itの構文」というか使い方は、

◆代名詞「それ」のit
◆「それ」じゃない、後ろの長い主語を置き換えたいIt
◆天気、寒い暑い、明るい暗い、時間、距離を表すときに使う
「漠然とした、意味のない」It

の3つくらい。これを基本とした、といっても代名詞のitを除けば大きくは2つの基本構文があって、あとはそれに表現方法がバリエーションでもれなくついてくるだけ。

結局英語は、基本構文の型さえ押さえれば、あとは表現方法としての単語や熟語などを覚えれば、勝負は早くなります。

英語の例文が100個来ようが、1000個来ようが、構文の型さえ見れば、同じものに見えるし、取り組みやすい。

もちろん表現方法の単語や熟語は覚えなくちゃならないわけですが。

ド――ンと例文が100個出たときに、誰かがそれを教えてくれなければ、親が登場して子供にいかに簡単に見せるか。

これが親の腕の見せ所!!

勉強において楽をするというのはいかに基本をおさえて応用をきかすかということ。

子供たちにも、もちろん親にも「ラク」をしてほしいものです。

成績がイイ子は「ラク」して成績がイイ。

基本を押さえて応用をきかす。「考える」って言うことは、いかに「ラク」するかを考えることにつながるんですよね。

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