こんにちは、ストロング宮迫です。
先日、深夜にNHK「仕事の流儀」の再放送を見ました。番組のHP染織家・志村ふくみ 『いのちの色で、糸を染める』には、こう記されています。
草木染めは、植物のいのちを奪う残酷な行為でもある。それゆえに、志村は強い覚悟を持って挑む。
「糸に変身する色は、死と再生があってこそ生きる。ただ採ってきて染めたではないんです。本当に大切ないのちを頂いているという意識がなければ、草木染めはやってはいけないことなんです」。
こういう意識を長い間持ち続けられているから人間国宝にも認定されているんでしょうね。
「本当に大切ないのちを頂いている」というのは、ホント言うのはカンタンなんですが、それを実践するのは難しい。
教育というフィールドに限らず、「先生」と言われる職種では、年数を重ねれば重ねるほど、見る数が増えれば増えるほど、自分というか、我というのが強くなるんじゃないでしょうか。
ここでいう「我が強くなる」とは、自分の型ができあがり、自分の豊富な経験に照らして見切りが早くなるといった感じです。
「あっ、ダメだ!」ってすぐ思うといいましょうか。経験や知識が増えれば増えるほど、その判断というか判定の精度は高くなる可能性は高まるのでしょうが、一方で、自分の型にはまっていない人の可能性は驚くほど簡単に見逃してしまうとでもいいましょうか。
※この毎日親技は2013年6月2日に配信したものです
著書でこんなふうに志村さんは書いておられます。
『色をいただく』
ある人が、こういう色を染めたいと思って、この草木とこの草木をかけ合わせてみたが、その色にならなかった、本にかいてあるとおりにしたのに、という。
私は順序が逆だと思う。草木がすでに抱いている色を私たちはいただくのであるから。どんな色が出るか、それは草木まかせである。
ただ、私たちは草木のもっている色をできるだけ損なわずにこちら側に宿すのである。
雪の中でじっと春を待って芽吹きの準備をしている樹々が、その幹や枝に貯えている色をしっかり受けとめて、織の中に生かす。その道程がなくては、自然を犯すことになる。
蕾のびっしりついた早春の梅の枝の花になる命をいただくのである。この梅が抱いている色は、千、万の梅の一枝の色であり、主張である。
私たちは、どうかしてその色を生かしたい、その主張を聞き届けたいと思う。その色と他の色を交ぜることはできない。梅と桜を交ぜて新しい色をつくることはできない。
それは梅や桜を犯すことである。色が単なる色ではないからである・・・
自分が勝手につくった「型」で子供たちを見ると、その色じゃないとつい言ってしまう。
そんな色じゃあ、将来ダメだ!とかね。経験豊富な人や自信がある人ほどそう言ってしまいがちになる。
しかし、あなたが自信を持っているその「自分の型」は本当に謙虚に吟味されたものなのか。いついつまでも通用するものなのか。
また、子供には「じぶんの色」がある。同じように育てたはずの兄弟姉妹がまるで違うものに育つように・・・
だからといって、生かすといっても、わがまま放題の子供の色をそのままってわけにはいかない。もともと持っている色をさまざまな工夫で変化させ、変えていく。
それは本来持っている「色」を殺すことじゃない。
『媒染のはなし』
あるひとが私のことをこう言った。
志村さんは離婚という媒染によって、染織の仕事をするべく染め揚げられた、と。
離婚が媒染になったという表現は少し妙であるが、言葉をかえれば媒染とは受苦、何らかの苦しみ、痛み、あるいは変動といってもよい。
生まれたままの姿ではなく、媒染剤によって色が変わる、あるいは発色するのである。
梅なら梅の液でともに染められたものが、灰汁や石灰や鉄で媒染することによって、それぞれ違った色になる。
親のもとで成長した息子や娘が年頃になって結婚し、就職し、環境によってそれぞれの色彩に変わってゆく。
もちろん人間の場合それほど単純ではないが、それもある種の媒染である。
自分の持っている素質と、遭遇した事実との関わり合いでどんな色彩に変わってゆくか。
人間にもさまざまな苦患を負いますます輝く人もあるし、痛めつけられて衰弱してしまう人もある。
でき得るならば人間の場合も、自分にもっとも適した媒染を受けて、その素質を伸ばしてゆきたいものである・・・
子供にとっての媒染の役割を誰が果たすのか。
親か? 学校か? 先生か?
媒染のためにはその子供の色を知らなければいけません。今日は薄い色で明日はちょび濃い色ってこともある。とにかく毎日観察して付き合うしかないのではないでしょうか。
あとがき
・・・人からみれば大いなる失敗、挫折、失意のどん底。そこから仕事ははじまった。もしその挫折がなかったら、私は平凡な一介の主婦だったかもしれない。
人を相手ではなく、素材が相手、素材と深くつき合う。手の先、指の触感が糸と語る。
私を選ぶのは素材なのだ。素材が私をはねつけ、そっぽをむいてしまうことも屡々だった。
或る時から、素材がふっと私に寄り添うようになった。素材のさまざまな表情が織の底から浮び上り、つつましく微笑んだり、厳しく射るように私を戒める。
いつでも素材がそこでやすらいでいられるように、私は十全の心くばりを怠ってはならないのだ。
子供は「物言わぬ」素材ではなく、「物言う」素材。ときにはねつけられて、そっぽを向いても、逃げるわけにはいきません。
ゲームじゃないからリセットもできない。なにもかも詰まってしまったら、「子供の色」ってもともとどんな色だろうか?って自分に問い返してみたらいいですね。
黄色を茶色にしようって無理な試みをしているかもしれないじゃないですか、ねえ。
成績上がったよ!報告
小4なめこさん
長男の時はお世話になりました。
次男が入塾し(小4)、テストも3回目を終えました。
1回目2回目とも、4科では偏差値50はあるものの、国語と算数は40台・・・
特に算数は「家ではできるけどテストだとできない」状態に陥り、早速いけドンシートを作り始めました。
結果、算数は47→60、国語は44→57へジャンプアップ!!
特に算数は、いわゆる「うっかりミス」というものが激減したことに驚きました。
メルマガの中で「3ヵ月で効果がなければ・・・」とおっしゃっていましたよね。
ですので「そろそろ結果が出てこないかな?」と期待半分不安半分でしたが、「やったらホントにできた感」を親子共々味わえて、また明日から頑張ろうね!と、子供と確認したところです。
ちなみにいけドンシートは36枚になりました。
無事第1志望に合格した長男は予想通り、英語に四苦八苦しています。こちらもまた頑張らなくてはなりません。
今回は相談ではなく、嬉しかったのでついご報告させていただきました。
またよろしくお願いします。
こういう報告はたびたびいただきたいものですなあ。
なにか1つ変える。1つです。
そして、成果を3ヶ月後に待つのではなく、日々その前兆を感じる、小テストで結果を出す、過程の確認テストで結果を出す、その上で3ヶ月後にどうなるか。
ただ待つだけの3ヶ月ではない。子供に頑張りなさいと言い続ける3ヶ月じゃない。
やればできるを実感させるところまでが親の役目。ファイト!