こんにちは、ストロング宮迫です。
もうすぐ七夕ですね。子供の短冊見たら家庭内が見えますので、ぜひ我が子の短冊は見ておきたいですね。
この前、中3と小6のダブル受験生の姉妹に会って少し話をしました。
中3生は期末テストが終わる前日、小6生も志望校判定テストが終わったあとで、しばしの安息日が明日から家庭に訪れるという雰囲気を漂わせている感じの木曜日でした。
お姉ちゃんに言いました「明日金曜日で試験が終わりなら、今日頑張って明日はフリーにしてもいいけれど、土日は1時間でもいいからゼロにせずに勉強するんやで。妹に手本を示すんやで」と言いました。
やることもこれとこれって具体的に目安になるものを言っておきました。
「なにやったらいいのかがわからなかった」という言い訳を言わせないためにね。
それで終わりになるはずだったのに・・・週が明けた火曜日に偶然また会った!
なので「土日にやったこと」の結果を聞きました。
「・・・・・・・」
「どうした? 土日にやったことがどうだったかってこと。なに聞かれているかわかるよね?」
「は、はい、土日は午前中が部活で、午後からは家族で出かけたので・・・・」
「へえ~そうなんだ。なんか楽しそうだねえ。テヘ」なんて・・・言うわけないでしょ!
「このク●バ●ーー、受験生で、行きたい学校があって、志望校には偏差値が足りなくてって奴が3日間もフリーなんてふざけんなよ(;`O´)o」って爆発しちゃった。
お姉ちゃんがそうなら妹だって、右へ倣えだ。
とっても教育熱心な家庭です。いつも勉強のことにはうるさく言われている家庭です。
で、このありさまだ!
そこにプールがあればプールに落としただろうし、熱湯風呂があればそこに落とした、と思う。
3日間、正味でいえば2日半「勉強が0」になったら、そのあとに必ず影響が出るとボクは信じてる。
だから7時間勉強しろ!とは言わず「1時間でイイからしないとダメだよ」って言ったんだ。
それなのに・・・受験生姉妹は2日半もフリーで家族団欒を楽しんじゃった。
「半年後の戦」に負けてもイイなら文句はないし、行きたい学校もなく、どこでもイイやっていうのならノープロブレムだ。
しかーし、戦には負けたくない、行きたい学校はある、まだ志望校には足りないのが明らかな現状で、2日半、2日半もフリーなんて・・・
ブッ飛ばすぞ!女の子でもブッ飛ばすよ(って気持ちね)!
ありえないよ。
じゃあ、2日半フリーにして月曜日から頑張ったかっていうと、そうじゃない。そういうもんなんです、勉強っていうのはね。
あのね、家族団欒してもイイんですよ。家族でお出かけしてもノープロブレム。
でも、「勉強0」にする必要はないし、しちゃいけないよ。あったりまえだ。
毎日毎日ちょっとずつ押すの。そりゃ苦しいよ。終わりなき毎日が続くんだから。だから伴走者がいるほうが「まあ、やりたくないけどやるか」って最初は歩いて、勢いがついたら走る。
中学受験のほうはね、テストが終わってもまたすぐテストっていうふうに、システムとして途切れなくテストがあるような仕組みのところが多いから、あんまり「勉強0」ってことはないと思うけれど、中学生は試験が終わったら「勉強0」がしばらく続いたりする。
この姉妹の場合は、お姉ちゃんに引っ張られて妹も「ほぼ0」状態で2日間過ごしてる。
もうね、不合格なんですよ、現時点ですね。
この子たちに戦う資格はないし、泣く資格もないの。親も勉強がどうの、受験がどうのなんて言う資格はない。
受験するにはパスポートがいるんですよ。「出国の審査」は誰もしないけれど、パスポートがいる。
偏差値も成績もパスポートじゃないんですよ。日々頑張りましたっていう実績のパスポートがいるんですよ。
ある子は日々頑張りましたの実績が5時間の子もいれば、30分の子もいる。それは問わない。人それぞれだから。
でも実績は多かろうが少なかろうが絶対にいる。パスポートなんだから。
ちょっと親にはその場にいなかったから言えなかったけれど、そういう風土が家庭内にあるのに「○○学校がいいよ」とか「○○学校にしなさい」なんて言っちゃいけないってことを言おうと思ってる。
そんなことを言う資格がないからさ。
毎日のことだから。やることもあるんですよ。やらねばならないこともある。勉強の強弱や調整はするべきだし、したらいいけれど「0」はないわ。
休んだ分だけ戻すの時間がかかるのは言うまでもない。勉強はね「0」にしたら、次に取り掛かるのに勉強する以上の労力がかかるんです。
今日「1」積んで、明日「1」積むから合計で「2」になるんであって、今日「1」して明日「0」になったら合計は「1」じゃないよ。
「今日1-明日0=0」で合計は「0」になる、勉強はね。
プラスマイナス「0」になるんだ。ボクの感覚では。
勉強はやったら「足し算」、やらなかったら「引き算」が適用される。3日勉強して3日勉強しなかったら「0」もしくはマイナスになるくらいの感じだ。
みんな「足し算」だけで考えているから「今日1+明日0=1」って考えて「セーフ」とか「現状維持」って考えるみたいだけど、そうはならない。
それがね、成績が下がるってことなんですよ。勉強ができなくなるってことなんですよ。
これは勉強を積み上げていくときの考え方であって、勉強のやり方の問題もあれば、問題量の選択もあるし、やる問題レベルの選択の問題もあるけれど、こうした親技で駆使すべく勉強のやり方、やらせ方のテクニックの前段階の考え方が、
勉強はやったら「足し算」、やらなかったら「引き算」の考え方だ。
定期テストで試験前1週間頑張っても、テスト後に1週間勉強しなければ、元通りか、前より少しマイナスになるんですよ。借金になるの。
休む時間が長ければ長いほどマイナス(借金)は目に見えないけれど膨らんでいく。勉強の精神が腐るんですよ。
3日休むのと7日休むのは「-3」と「「-7」程度の違いじゃなく「-3」と「-17」くらいになる。
ここで親技を学んで勉強のやり方、問題量の選択、やる問題レベルの選択なんかをいくら考えに考え抜いても、「勉強0の思想」が日常生活で蔓延っていたら、テクニックでは挽回しようがない。
たしかにある受験までは、騙し騙しでもそのテクニックで乗り切れて「合格」をもらえる可能性もある。現にそうやって合格した人もたくさんいるから。
でも、受験で合格して「終わり」でも「上がり」にもならない。騙し騙しで合格したら、そのあとには「地獄」が待ってる。うまくすり抜けたなんてうれしくもなんともないよ。
すり抜けた後に訪れる地獄は、ちょっとした地獄なんかじゃない、煉獄の地獄だったりするからさ。
中学入試の後、高校入試の後、大学入試の後、就職試験の後、結婚の後 etc 何度うまく潜り抜けようと、日々うんうん押す実績については、どこかで必ず問われる。
難しいのは「日々うんうん押す実績」だけじゃなく、その「押した実績」の中身も聞かれるから。
中身が良くても日々うんうん押さなければダメだし、日々押しても中身がダメなら、どこかから「ちょっと待った!」って声がかかる。
多くの子供たちが社会に出る前に経験する受験は、その準備体操です。
500本ホームランを打って20年スターでも、きれいな女優さんと結婚して会社経営してても、つまり、あるところまですごくうまくすり抜けても最後は問われるの「ちょっと待った!」ってね。
その基本のキになるところが「勉強を0にしない」ってとこなんです。
たとえ30分でもやるの。
そうやって毎日うんうん押すには理由がいるんですよ。
なんでしなきゃいけないの?って子供は思うから。思えば口に出す。口に出せば頭に疑問は渦巻く。親に答えをごまかされれば疑惑はさらに膨らむ。親子の力関係が逆転した時点で勉強どころじゃなくなる。
勉強どころじゃなくなったら、勉強や受験で子供はそれを学ばないから、なにかで子供はそれを学ぶことになる。社会に出て学ぶ人もいるし。
いつ学んでもいいけれど、目の前に学校や塾や受験があるんだから、うまくいこうがいくまいが、せっかく学ぶ機会が与えられているんだから、そこで学びましょうよ!というのが親技の考えです。
さっきの姉妹にこの話をするのは実は3回目だ。以前の2回を踏まえて、今回はじっくり話したんだ。
それなのに・・・・
悪びれもせずシレっと「土日は午前中が部活で、午後からは家族で出かけたので・」だからブッ飛ばすぞ!ってなる。
別にボクの言うことなんか聞けないって思っているなら、それでもイイ。言うことを聞いてみようかなって思う人の言うことが聞ければいいんだからさ。
誰でも受験はできる、機会平等の時代だからさ、それに文句はないけれど、だからこそ、ちゃんと日々うんうん押して実績を作ってパスポートをもって受験を迎えましょうよ。
率直に言って学校なんてどこでもイイんですよ。どこに行っても芽を出す奴は芽を出す!必ずだ。ようやくそう思えるようになってきた。長くかかったけれど。
ちゃんと日々うんうん押して実績を作った連中は必ず「おっ」と目を出して周りが認める日がくる。それが明日か20年後かはわからないけれど、絶対に来る。
待てない人は「3時間で偏差値10上がる本」なんていうお気軽な本でも読んで、パスポートを持たずに密入国しなさい。
しばらく誰も評価してくれない日々もある。大人でもそれはキツイから、子供はなおさらキツイ。だから子供には親が認めてやれって言ってる。ちゃんとやらせた上でね。
人育て、子供育ては「農業」なんです。
天候という何ともしがたい外部の思わぬ要因もあって自分たちでコントロールできないことも起こるし、水をやりすぎると枯れるし、やらなすぎても枯れるし、時には肥料も蒔かねばならない。あれこれ世話しないと育たたないんだ。
肥料にも化学肥料もあれば、有機肥料もある。それは選択の問題だ。
ボクは「自分が食う」って思って「自分でジャンジャン食えるもの」を育てたいって思うだけでね。
たとえばボクが誰かを教えてどうしてもどこかの学校の合格実績を得たい(最大の収穫)と思って、面倒を見て育てるとしたら入試は期限が決まっているから、化学肥料でも遺伝子組み換えでもあらゆる手段を駆使し、人工の光を当ててでも成長を早め、期限までに最大の収穫を目指すやり方をするでしょう。
来春に最大の収穫をする!ということが目的なら、そのやり方は合理的ともいえるでしょう。
でも、それは「自分で食う」つもりで育てるわけじゃないよね。入試で食ったら終わり!って話であり、育て方だから。
栄光は儚く、かつ一瞬である!
最高の収穫をさせて喜ばすことはもちろんできるけれど、それは一瞬であり、それが繰り返し再現できるかどうかはその過程による。
畑だって毎年収穫していれば土地が枯れるっていうじゃない。違う作物を植えたりしたほうがイイとか休耕するとか、寒肥をしたりさ。
日照りも水不足も不作も収穫過剰の年も人生ではあるけれど、長い人生だ。自分が正しいと思えることを死ぬまで日々ちょっとずつうんうん押す。
「自分が食う」ことを前提に育てるのが一番正直な育て方なんだと思います。入試を終えてもまだ先があるし、子供を外に出すまでそれは続くんだから。
だから区切りの入試は「収穫」の年なんじゃないですよ。収穫はね、家から離れて自分たち親がしてきた「農業」が良かったのか悪かったのかがわかる。
今、目の前であれこれ起こっている現象はそれら収穫がどうなるかの前兆でしかない。だからこそ今目の前に出ている前兆を見逃さず、観察して手を打っていく。
親は毎日子供に勉強させたらイイけれど、親自身がそれをやらせるのは苦しくなるような勉強をさせなければイイ。
あなたがやるべきだと思え、毎日そうすべきだと思える勉強時間は何分なんですか? 何時間なんですか?
テストが終わった翌日に「さあ、やるよ!」ってやる勉強時間はどれくらいならさせられます? お子さんはどれくらいの時間なら頑張れるんですか?
毎日だからさ、親がそれを子供に課して心が張り裂けそうな勉強なんかさせなければイイ。ずーーと続くことなんだから。
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が染みる今日この頃です。
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かりそして忘れず野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず 苦にもされずそういうものにわたしはなりたい