こんにちは、ストロング宮迫です。
6月ですよ!夏休みまで、あと1か月半。
意義ある夏休みにするために今頑張る!今している勉強およびその結果によって夏休みになにを重点的にやるかがおのずと決まるんです。
いつも書くように夏休みの数日前に「夏休みは頑張ろうな!」って励ましあう受験生の家庭は「成果のない夏休み」になりがちですから、気をつけて進みましょう。
さて、北海道の山林で小学生が1週間ぶりに発見されたそうで、なによりです。よかったですねえ。
北海道の林道で”しつけ”として一人残され、行方が分からなくなっていた小学2年の児童が3日、陸上自衛隊駒ケ岳演習場内で見つかった。
※この毎日親技は2016年06月06日に配信したものです
皆さんの周りもこの話題でもちきりですか?
ウチの嫁もいつもはニュースにほとんど触れないのに「まだ見つかってないみたい」って、聞いてもないのに毎日ボクに報告してきてた。
ボクの頭には即座に「お前はヤフーニュースかよ?」って浮かんでたけど、ケンカの種になるような余計なことは言わない用心深さが今のボクにはあります(#^.^#)
そんな成長した自分を褒めてやりたい気分だ。
それはさておき、子供が発見される前も喧しかったが、元気で発見されたらされたで世間が喧しい。
「よかったね」では終われないらしいね(≧◇≦)
著名人も含め、みんな「教育」には一家言もっているらしく、バッサバッサ斬りまくっているらしい。
北海道のあのニュースを見て、ウチの息子はすぐ
「野犬がいなけりゃ、いいけどねえ」
って言った。
ボクは即座に「ムムム」とか「ギョギョギョ」って声にもならない声をあげた。
ええ、我が家でも「置き去り事件」は起こってたってことです(;^ω^)
そして、その経験者である息子が自分がその時に得た知恵で「野犬がいなけりゃ、いいけどねえ」って言ったわけです。
ウチではいろいろ事件がありすぎて覚えてもいないし数えてもないけど、そんなことは特に子供が小さかった頃は日常茶飯事だ。
息子が言う「野犬がいなけりゃ、いいけどねえ」は、数ある事件のうちの「あの事件」を指しているに違いない。
今となっては、なにゆえボクが激怒したのかさえ、ボク自身も息子に聞いても覚えていないけど、とにかくウチの「置き去り事件」は、家から20キロはあろうかという山で起こった。
「公園で人や車に石を投げ付けた」よりは、もっともっと些細なことだったはずです。
車の中にはボクと長男と次男の男3人だ。長男は小4か小5くらいで、となれば次男が小1か小2という計算になる。
山からの帰り道、覚えていない理由で激怒したボクは「お前ら走って帰れ」って車から降ろした。
うん、間違いなくあれは夏だったよ!
ボクは車で子供たちの少し前を伴走して、子供たちは走る。
遊んでの帰りで、夕方だし、子供たちはくたびれてる。その上での「走って帰れ」だから、身体もクネクネしちゃって走ってる。兄弟でも走り始めはしばらく言い争っていたから、きっと「お前のせいだ」とかなんとか言い合ってたんだろう。
ボクはクーラーがばっちり効いた車で、おそらくコーラでも飲みながら、サイドミラーで子供たちを見ながら前を進んでいた。
「もうしばらく行ったらトンネルか。歩道もあるし、あのトンネルを走り切ったら手打ちにするか」と落としどころを考えつつ、トンネルに入る手前の左手の空き地に目をやると、そこには首輪のついていない野犬らしき連中が5いや、7匹くらいはいた。
車に反応したのか「ガルルゥゥゥ」って開けた窓からはうなり声が聞こえたような・・・
たしかに行きのときも、あそこにいたような・・・
ボクはアオくなってね。
ウチの子、エサとしては、おいしそうだったから、当時はプルプルしてね。
ブレーキ踏んで左のサイドミラー見たら、野犬がいる空き地のそばに子供たちはもう来てた。1匹出てきてね「ガルルゥゥゥ」。
ウチの子は「2匹」だったけど、完全に「3匹の子ブタ」状態でした。
そのあとどうやって子供たちを車に回収したのか。クラクションを鳴らしたのか、バックしたのか。それはもう覚えていないけれど、大慌てで子供たちを左側からではなく、対向車線側の右側のドアから回収したことは覚えてる。
「父さん、あの犬ヤバイよ。あれ、犬だった? オオカミみたいだったけど」とかなんとか、子供たちは走った時の汗よりも、違う汗が出てたし、ボクも汗じゃない汗が出てたと思う。
下の子は無邪気に「ぎりぎりセーフ」といえば、上の子は「セーフじゃねーよ。どう見てもアウトだったろ」って応え、ボクは「ダブルプレーの可能性があったな」ってコーラを飲みあって帰った。
「この事件」は新聞でもテレビでも報じられなかったけれど、我が家では事件に数えられるうちの1つで、その後、その山道を通るたびに子供たちは、通り過ぎ際にあの空き地を確認して「今日もいるよ、2匹」とか言い合いながら通るんだ。
あのとき小1か小2だった次男坊が北海道のニュースを見てすぐに「野犬がいなけりゃ、いいけどねえ」って言い、「置き去り」にしたボクがそれを聞いて「ムムム」とか「ギョギョギョ」って声にもならない声をあげたのはそういうワケです。
なにが言いたのかって!?
うん、ボクら親は子供たちに数々のミステイクを犯すんだけど、そのほとんどは子供たちが救ってくれるってことです。
感情的になったり、何度も同じことを言い聞かせたり、置き去りにしたり、ドロップキックしたりするけど、そのたびに子供たちが子供たちになりに消化して親の過ちを許しはしないけれど、忘れてくれたり、スルーしてくれたり、見逃してくれたりする。
ただそのスルーの回数は限界があって、無限ってわけじゃないってことなんです。どこかで限界がある。
だから、ボクら親は自分のやっていることを自分で必ず振り返らなくちゃならない。そうせざる得ないんだ。
間違ってたら子供にだって謝る。間違っていないと思えば、そう言えばイイ。そこで親子でヤイヤイ言い合うんだな。
言い合って、お互いの落としどころが見つかったものは、その家のエピソードになり、伝説になる。伝説になったら、おもしろおかしく話せるようになる。
逆に言えば、悲惨でしんどい話も、おもしろおかしく話せるようになったときにその逸話は伝説になったともいえる。
もっといえば、後から考えればちょび怖い逸話を一生懸命伝説にして、おもしろおかしく消化しようとしているともいえる。ボクはどちらかといえば、このタイプだ。
そうするために、ボクは機会を見つけては、あの野犬がいた場所を車で通る。通るたびに「本日のオオカミの数を発表してください」と言い、「今日はオオカミはお出かけで留守のようです」と子供の発表を聞く。
ボクが犯した「置き去り野犬事件」を消すことはできないけれど、それはある意味では、イイ思い出だったり、教訓だったりに転化しようという必死の試みでもある。
そうしようとしても、決してかなわなかったボクの犯した罪もここでは書いたことがある。
また「いったいあの事件はなんだったのか」その意味や今後同じことがあったらどうすべきだったかを考える材料にもなりうる。
たまたま死んだりしなかっただけなんです。
仮にウチの子が野犬に噛まれて死んだとすれば、警察にはボクは「トレーニングの一環で走って帰る途中に噛まれました」っていうに決まってる。たまたま警察に聞かれる事態にならなかっただけでね。
つまり、ボクやウチの子が今こうして生きているってことは、数多くの奇跡が連続して起こっているだけなんだってボクは思ってるんです。
ウチだけじゃなく、あなたの家でも、今こうしてあるのは、これまでに考えられないようなセーフの奇跡が起きた結果なんだと想像します。
奇跡は毎日毎日起きてるんですよ、それを奇跡って思わないだけでね。
ボクの家では置き去り事件は年に1回くらいしか起こらないことだったけれど、それ以外にも各家庭でいろいろとあるはずです。
なかには子供に起こった奇跡を親が知らないだけってことも数多くあるはずなんです。
奇跡が起こったと知っているのは当事者だけだからね。
あなたの家の、テレビや新聞で報道されない事件については、あなたが子供と向き合って、話し合って、咀嚼し、消化して、伝説にしていかないといけない。
伝説になりうる事件の数はどの人間も大人になるまでは、みんなだいたい同じ数だけ起こってるんです。
でもそのあとの処理によって伝説の数は人によってまるで違ってくる。
伝説の数が多ければ多いほど、すごいってわけじゃなく、それはそれだけ時間をかけて向き合って、話し合って、咀嚼し、消化していった結果なんです。
北海道のニュースみたいに溢れんばかりに報道されて、さらされて、あらゆる人があれこれ言い始めると、最初に事件が起こった端緒とかその中での会話とかやり取りとかの家族間でのものが消えてしまう可能性が高くなります。
たとえば子供が親について文句を言う前に、世間が親に文句を言っている今の状態なんかは、子供から本音が出てこないっていう可能性も含まれる。世間の意見というフィルターがかぶさった上で親子が話し出すと、そもそもの最初の出発点から違う道に行ってしまうこともありうる。
識者や評論家の言う「正論」からこの家族の話を考え始めると、自分たちが思っても見なかった着地点に不自然に行き着いたりもする。
だからね、そっとしておいてあげるのがイチバンなんです。あとは家族で話し合ってねってさ。
心のケアとかいって、妙なやつが出てきて、頓珍漢なことを言い始めたら、メチャクチャになってしまうんです。
でも捜索でいろんな人が長い時間出ちゃっているから、そうもいかなくなってきている状況なんでしょう。警察や捜索してくれた人に説明もしなきゃいけないんだろうから。
発見された児童の通う小学校では今回のことがあって運動会を延期して朗報を待っていたとニュースで聞きました。
せっかくだから、子供はサバイバー風の迷彩服でも来て、お父さんには20キロのバーベル背負わせて、捜索した消防団の人とか自衛隊の人も一緒に徒競走でもしたらいいんだけどね。
イベントにして、お祭りにして、ハハハってみんなで笑う。笑えるようにするんだ。
自分たちはもとより、他の児童や父兄にとっても忘れられない「2016年の運動会だった」ってなれば、一番いいように思うけど。それは親子の力だけではできないんだけどね。
イベントが終わって、迷惑をかけた世間の人たちへの儀式が済んだら、親子でまたあの森に行って、時間をかけて向き合って、話し合って、咀嚼し、消化する。
でさ、遠足は児童が通った道を探索する遠足にするんですよ。「この道を通ったと思う」とか言ったら、その道を行ったりさ。その遠足では、道に迷ったら「まずは動かない」とか「水があればある程度大丈夫」とか今回の事件の教訓を学ぶ機会にしたりさ。
ふざけていっているわけじゃないんですよ。
そうやって事件を自分たちにとってイイ伝説にして、イイ思い出になるように努力して解釈できるようにしていくってことです。
虐待か、しつけかって議論になっていると聞いているけれど、このあと、この事件をどう咀嚼して消化するかによって、虐待だったか躾だったかも決まってくるんじゃないでしょうかね。
同じことが起こっても、これからで、虐待になりうるし、躾にもなりうるし、良かったね悪かったねになりうる。
親子の行き違いなんてザラにあるでしょ?
3つボタンの掛け違いが起これば、今回のような事件になる。でも、だいたいボクらの身の周りで起こっている事件はボタンの掛け違いは2つまでなんです。でも1つ掛け違っただけでもエライ騒ぎになるからね。
事件は起こる!!未熟な親と未熟な子供がセットで生活してるんだから。必ず起こるんだ!
あとはその起こってしまった事件を繰り返すけれど、どう向き合って話し合い、咀嚼して消化して、伝説に昇華していくか。
みんなが知っているエピソードでいうと、長嶋茂雄終身名誉監督が若かりし頃、野球の試合を息子と球場に一緒に見に行って帰るときは、息子を球場に置き去りにして帰ったって話を知ってますよね?
長嶋さんは、家に帰って妻に言われて初めて気付いたとか・・・
たしか置き去りにされた息子は小学生だったはずです。この話、聞けば「なんてひどい」って話になってもおかしくない話のはずだけど、今では長嶋さんの「天然さ」ってことで美談とまではいかないけれど、微笑ましいエピソードってことになってる。
北海道の話もこうなったらいいですね。そうなるように親子はもとより、周囲の方も協力してあげたらいいけど。「世間の正義論」がこの過程をぶち壊さないことを祈るばかりです。
最後にこの手の事件が起こった時、特に親は反省すると思うんです。いろいろとご迷惑をかけましたってね。
で、周囲からは「厳しすぎるんだよ」とか「もっと子供の話を聞いてやって」とか状況的に周りは比較的言いやすくなっているから言ってくるんです。
あなたの家の子供は家出はしないかもしれないけれど、たとえば家出なんかして警察に捜索を頼んだりしたら、どこでも誰でも大騒動になるんですよ。
で、警察に行っていろいろと聞かれるんだけど、必ず警察官がしたり顔で言うの「勉強しろとばかり言っていませんか?」とか「受験のことばかり言いすぎていませんか?」とかね。
これまで生徒の家でのことで何回か、親への付き添いで警察に行ったことがあるけれど、必ず、必ず言うんだ、警察官が、ドヤ顔でね。
でね、親も改めてそう言われて考えてみれば「たしかに少し言いすぎているかな」って思うんだな、これが。
それはね、その親がまともってことなんですよ。まともだから、「たしかにここのところ言い過ぎたかも・・・」って振り返って思えるんだから。
で、親は「たしかに」って思い当たるような顔をしたら、警察官は「ほらね、当たってるでしょ」ってかなりのすっごいドヤ顔するんですよ。
あのさ、「あなた、最近食べすぎじゃない?」って言われたら、みんな「たしかにそうかも・・・」って思うんですよ。それと一緒。
子供に「ちょっと言いすぎたかも・・・」っていう思いは親はいつもあるから。
なにが言いたいかっていうと、大騒動があると、そうやって周囲から「やりすぎ」「言い過ぎ」ってあったりまえの批判にさらされる。
大騒動を起こした代償として、親はそれを受け入れられるし、受け入れるべきだし、一度改めてその言われたことについては考えてみるべきなんだ。
しかし、今まで見てきた多くの親は大騒動が起こると、腰が引け気味になる。
「公園で人や車に石を投げ付けた」ら、ボクは子供にバックドロップするんですよ。他人がなんて言おうがね。
そうすべきだと思っているし、やっちゃいけないよって思ってるから。たまたま誰かに当たらなかったからよかったけど、当たってしまったら取り返しがつかなくなるからさ。誰にも当たらなかったなんて、それこそ奇跡だから、また奇跡が起こるとは限らないじゃん。
大騒動になろうがなるまいが、言わねばならないことは言わねばならない。
あとは大騒動にならなくても、伝わるように、どういう言い方をして、どう伝えるかはあなた次第だ。
でも、なにか大騒動が起こってしまうと、大騒動の後だと「言うべきだ」って思ったことも考えすぎて言えなくなってしまうってことが多々起こる。
言うべきだけど、これが原因でまた周りに迷惑をかけでもしたら・・・って思ってしまう。これを言うと、大騒動になって周囲に迷惑をかけてしまうっていう経験をすると、言うべきことを言えなくなってしまうというようなことが起こりがちになる。
事件が起こると、それとどう向き合って話し合い、咀嚼して消化して、伝説に昇華していくかにしていかないといけないんだけど、事件が起こる前に、何も言えず、ゆえに事件が起こってしまうっていう違うルートの事件発生メカニズムをとることがあるってことです。
言えば大騒動、言わずに大騒動ってなった時、親はもうどうしていいかわからなくなってしまう。
親でも子供でもパニックになったら、頭が真っ白になったらどうするか?
そう、立ちすくむ。なにもしない、できない状態になる。
起こっている事象に対して、なーにもしない、できない状態になるんだな。
実はこれがイチバン最悪の現象で、もっともあっちゃいけないことだとボクは思っています。
的外れなことを延々と子供にしているのを見ると、うなだれてしまうけれど、何もしない傍観もまたボクを凹ませる。
今回の北海道の事件はそういうボクたちの身近に起こっていることを考えさせる事件だったと思います。
言いすぎもダメ、言わなすぎもダメ、ちょうどいいところで言わないといけない。
ほとんど神業なんだよ、これは。
そのちょうどよさは子供によって、また親子関係によって全然違うラインがあるんだ。
だから、隣の家のあの子とはどこまで言うか、言わないかのラインが違うから、我が子のラインを見極めていかないといけない。兄弟でも違うんだから。
どうやって?
向き合って話し合い、咀嚼して消化して、伝説に昇華していく過程でしかわからない。
中庸っていっても、それぞれ子供によって、親子関係によって全部違う。
他人のことを見て「バカだなあ」なんて言っている場合じゃないんですよ。そんなことはテレビや新聞に言わせておけばイイ。
だって、我が子が目の前にいるわけだからさ。奇跡が起こっているのに奇跡と気づかないのが一番アホなんだから。
あなたは聞かれてさっと言えるあなたの家の伝説っていくつあります?
その数だけ子供とぶつかり合ってきたってことです。何年か後にイイ思い出話にできるよう、ボクら親は頑張っているともいえるんですよ。
違います?
参照:週刊親技
『10の鉄則』の感想、続々と・・・
小5 はてなさん
(省略)どのように丁寧に説明しても、何回説明してもとわからない子どもに長い間怒ってダメ出しをし続けてきました。こっちがいろいろ調べて良いやり方を示してもまったく関心を示さず、努力もせずに「どうせやってもできない」などと口にされると腹が立って仕方がなかったから。
自分の仕事のことだったら、もっと楽で簡単に解決できるのに、こと子どものことになると難問になります。
それも10の鉄則を読んで私の問題点が少し見えてきたように思います。
正しいことを言っても聞いてもらえなければ仕方がない。聞いてもらえないことは正しいのかと考えられるようになりました。
常に私が正しい立場で正論を言うことで息子は追い込まれていたのかもしれませんね。追い込まれれば窮鼠猫を噛むしかなかったか。
ここまで来た道は取り消せないので反省もし、考えをあらためて子どもに接していきたいと思います。
迷ったらご指導ください。
子供を説得するのは、会社の同僚や同じ年代の人を説得するよりも難しいはずです。
会社の同僚や同じ年代の人でも、理屈が正しいかどうかよりも、嫉妬やひがみやモノ言いや立場によって耳を貸さない人も多いでしょうが。
大人の理屈が通らないのが子供です。そこに親技の存在意義もある。
親は不動じゃいけないんじゃないでしょうか。
子供の様子を見て、押して引いて、正面がダメなら側面から、上から下から攻めていく。もう臨機応変に攻めていく。
臨機応変に攻めるためには、子供を知らなくちゃならない。子供を知らずに理屈や理論で子供に迫っても反発するだけ。毎日ダメだしされたら、どんなにやる気がある子供でもつぶれる。
勉強は子供が頑張るんです!汗をかくのは子供!勉強で汗をかかねばならないのは親ではなくて子供。
でもそれは「自分のことなんだからやりなさい!」では進まない。鉄則第3章読んだら実行してください。