こんにちは、ストロング宮迫です。
もう6月となり、1年の折り返し地点を迎えました。
これから夏休みを迎え、いよいよ受験の緊張感が漂ってくる季節が再びやってきます。
この間、あるお母さんと話しておりましたら、受験生ということでお祓い(おはらい)をするとかしないとか。
勉強以外のいろんなことが気になるんですよね、受験生の家庭は。
ちょうどこの6月の末には、神社で夏越の大祓(なごしのおおはらい)が行われるとこも多いようですね。
有名なところを調べてみると・・・
…etc
6月末と12月末に、半年の間に知らず知らずに犯した罪や心身の穢れを祓い清めて、正常な本来の姿に戻るための「大祓」が行われます。
6月を夏越しの祓、12月を年越しの祓とも呼びます。
平安時代から行われたいたそうで、たいそう古い伝統あるもののようです。
普段は初詣くらいにしか神社に行かないはずが、受験生ともなると、急に行かなくっちゃあと思うようです。
夏越の大祓では、たとえば、
人形(ひとがた)・形代に自らの罪穢れ(つみけがれ)をうつし、神社で神事のあと、川や海にそれらを流し罪穢れを祓います。
また、穢れを祓う茅を輪にしてくぐったり、身につけたりもします。茅輪をくぐり越えて罪穢れを除き、心身の清浄ならんことを祈請するので「輪越(わごし)祭」「茅輪くぐり」ともいわれます。
お祓いとは、罪やけがれを祓うと。
でも、以前はボクなんかも、「オレ、お祓いなんてしてもらうような罪、犯してねえし!」なんてうそぶいていたものでした。
ただ、ここで言われている「罪やけがれ」というのは少し意味が違うようなのです。
そもそも罪・穢れ(けがれ)というのは、なにも犯罪というような意味の罪ではなく、神さまがお生みになられた素晴らしい人間本来の姿を包み隠してしまうようなものを、「つみ(包む身)」というのです。
また穢れというのは、汚いなどという意味ではなく、日々われわれを生かしてくださる神さまの尊い「気」を枯らしてしまうようなものを、「けがれ(気枯れ)」というのです。
ですから、これらは全て我欲の表れですから、お祓いをするのです。
なるほどねえ。ボクはこれを読んでとっても納得できたのでした。
「我欲」によって、「包まれ」て、「けがれ(気枯れ)」たものをお祓いすると。
でも、じゃあ、お祓いすれば、人間本来の姿を包み隠した罪や「気」を枯らしてしまうような「けがれ(気枯れ)」は、除去できるのか?
いや、「お祓いして除去するものでも、消えてなくなるものでもない」と葉室さんはおっしゃいます。
お祓い(おはらい)というのは、「罪・穢れを、自分を生かす力に変えて、体のなかに取り入れることではないか」と葉室さんはおっしゃいます。
どういうことか?
たとえば、
「病気は福音なり」と昔からいわれてきましたが、これは本当のことであって、病気というと普通、マイナスの面ばかりを考えてしまいますが、そうではなく、病気になったことによって、それがかえって素晴らしい「悟り」になることもある。
それを乗り越えることによって、今度は病気がプラスになっていくわけです。
私は学生時代に結核にかかり、血を吐いて、死の一歩手前まで行きましたが、それが神さまのお導きによって生かされていることに気づくことになり、それによって甦ってきました。
つまり病気が私の人生のプラスに変わってきたわけです。こういうことが祓いではないかと思うのです。
ですから、マイナスをプラスに変える働きが、本当の祓いではないかと思います。
マイナスをプラスに変える根本は、やっぱり「今を感謝して生きよ」ということだよなあとボクは解釈したんですが、皆さんは、いかがでしょうか?
形成外科医から春日大社宮司になられた葉室頼昭さんは、2009年に亡くなられましたが、現在でも、その残った著作で「日本人のこころ」を自らの体験、医者としての経験、藤原氏系統の貴族の血、そして宮司としての目など、いろいろな視点を提供してくれています。
ただ言葉で「今を感謝せよ」と言うのは、いかにもカンタンなんですが、これがなかなかできていない気もします。
例えば、こんなことを考えてみました。
子供が宿った時に「やっぱり男の子がいいな」「女の子もいいかなあ」なんて思った。
それが「さあ、生まれるよ!」ってときには「元気でさえいてくれたら」と心から願った。男でも女でも元気に出てきてくれよと。
しかし、10数年経ったら、もう「元気」だけじゃあ、許せなくなっている。
でも、あのとき、願いましたよね?
「元気でさえいてくれたら」と。
いったいなにがあったんでしょうか。なにが変わったんでしょうか。
ボクらは「成績がイイ子」を目指して、この親技というものを主宰しているわけですから、そのボクがこんなことをいうのは、おかしいじゃないかと皆さんは思うかもしれません。
成績がイイ子を目指すのはイイ。それはイイんです。ガンガン目指せ。
ただ、親としての出発点は「元気でさえいてくれたら」だったんですよ。
子供は生まれたときから、なんにも変わっちゃいない。
変わったのは、親であるボクらの意識のほうなんじゃないでしょうか。
そう考えると、同じ「成績がイイ子」を目指す、その目指し方も変わってきませんか?とボクは思うわけです。
だからといって、「鉄砲の弾」みたいに「出ていったら、どこへ行ったか」わかりません、勉強は1日5分です。とても元気です!が素晴らしいと言っているんじゃないですよ。
5時間でも、10時間でも、成果のある、意味の見いだせる勉強ならやらせたらイイ。
現にボクもそうしていますから。
でもね、繰り返しますが、出発点は「元気でさえいてくれたら」だったんです。
そうですよね?
振り返ってみてください。これまで来た道を。お子さんが歩んできた道のりを。ずいぶん頑張って登ってきているんじゃないでしょうか、出発点から見れば。
皆さんも、「もっと頑張らせる」のはいいけれど、出発点を忘れちゃいけないんじゃないか。
自戒の意味も込めてボクはそう思っています。ご飯が毎日食べられる。勉強に打ち込める環境が与えられている。「今を感謝して生きる」というのは、ここに目をつけるってことじゃないか。
「元気でいてくれたら」、それが達成された時点で100%だったんです。そこからの道のりは勉強させて、スポーツもさせて、全部100%の「元気でいてくれたら」にプラスで積み上がっていっている。
今、熱心に頑張っている方、目がつり上がって夏休み前の追い込みを頑張っている人ほど、フッ息を吐き出して思い出しみてほしい。
夏越の大祓いに行って茅野輪をくぐるのもよし。別に神社でなくたっていいんです。教会でもモスクでもいい。そういう場所って、人に「出発点」に改めて思い出させる場所なんじゃないのか。
お祓いという行為は、それを思い出させるためのものではないのかなと。
あっ、そうそう、お子さんの小さい頃の写真を見るのなんかはいいですよ。ぜひお試しください。
最後に1つだけ。
葉室さん、曰く、神社によってはどうも勘違いしている人もいるようなので、紹介しておきます。
祓い(はらい)といえば、僕は神職にも考え違いをしているんじゃないかとよく言うんですが、お祭りの前に神職が大麻という細長い紙きれのついた棒を左右に振りますでしょう。
それはお祓いをしているんですが、その奉仕している神職は「みんなを祓っている」と思っているかもしれないけれど、違うんですね。
それはとんでもない話で、あれは「神が人を祓われている」のですね。
神さまというのは、ものすごいお力を発揮され、みんなにお恵みを与えようとしていらっしゃる。
その時、お恵みを枯らすような体であったならば、穢れた体では、せっかくのお恵みが死んでしまいます。
それで必ず神さまは皆さんにお恵みを与えるために、罪・穢れを祓うんです。
人間が祓っているんじゃありません。
だそうなので、自分が祓っているような顔をしている神職にご用心を!!
『10の鉄則』の感想、続々と・・・
中1 とっとかあさん
10あるなら3つくらいはクリアしてるだろう(3つに根拠なし)と思ってましたが、玉砕しました。全滅でした。
私が息子なら、グレてました。息子に申し訳ないことしました。悪くなった関係を修復したいです。
息子は今、1泊2日の野外活動に出かけています。その間に、テキストとCDとメルマガにどっぷりつかるつもりです。
悲惨だった中間テストのリベンジのため、野外活動から帰ったら期末のテスト勉強少しずつやろうと話していました。
鉄則を使っていけるよう、頭に叩き込んで、やってみます。
1教科じゃ物足りない、2教科、3教科で頑張りたいと。
大いに結構です。ただ、それによって勉強がただ長いもになったりしないようにすべきですね。
中学生の場合、日々5教科を勉強する必要はないでしょう。
英語と数学を日々の勉強のベースに、国理社は学校の進度に合わせ、習ったら撃破するなどで攻めたらイイですね。
次回、期末テストに本気で取り組むことで課題も見えてきて、夏休みにやることが明確になるでしょう。
まずは本気で取り組むことです。