こんにちは、ストロング宮迫です。
この間、くたびれすぎて眠れなかったことがあって、本を読む気力もなかったので「じゃあ、眠くなるまで映画を見るか」と思って、録画しているものの中から1つ選んでたまたま見た映画がこれだった。
特別に期待してたわけではなかったけれど、映画の冒頭で子供が「ソロモン・グランディ」を歌っているのを聞いて、もう明日の朝の予定が早いことも、眠らなきゃって思いもすっかり吹っ飛んでしまった。
ウチの子も、昔っから「ソロモン・グランディ」をよく歌っていたし、主人公の子供時代を演じた子がウチの長男坊にしか見えないくらい雰囲気が似てたから・・・・
ソロモン・グランディ
月曜日 生まれて
火曜日 洗礼
水曜日 結婚
木曜日 発病
金曜日 悪化し
土曜日 とうとう死んじゃった
日曜日には埋められて
これでおしまい
ソロモン・グランディSolomon Grundy,
Born on a Monday,
Christened on Tuesday,
Married on Wednesday,
Took ill on Thursday,
Worse on Friday,
Died on Saturday,
Buried on Sunday.
This is the end
Of Solomon Grundy.
こうした実人生での思い出と外部の出来事がリンクして、ボクを何か奥深い淵に引きずりこもうとしていると感じることがこの頃多くなったのは年齢のせいか。
この有名な「人生を7日間にたとえた」奇妙だけれど、妙に納得もできる歌の解釈については、あなたに任せることにする。
こうして見ることになったこの映画のストーリーはともかく、主人公とその弟、そして父親をめぐる会話は考えさせられるものがありました。
映画のネタバレとなったとしても、どうしても書いておきたい。ネタバレがイヤな方は、この映画を見てから以下を読んでくださればイイです。
記憶を頼りに書くので正確であるかどうかはどうぞご容赦ください。
この映画の主人公は「高機能自閉症」「自閉症スペクトラム障害」ということでした。ネットで見ると、おおむね「自閉症スペクトラム障害(ASD)は、社会的コミュニケーションの困難と限定された反復的な行動や興味、活動が表れる障害」となっており、主人公もそのように描かれていました。
でね、ある場面で親がこういう「よその子なら【苦手】で済むけど、自分の子だと大問題よ」ってさ。
勉強も同じですよね「よその子なら【タイヘンね】で済むけど、自分の子だと大問題」ってわけです。
「どうしてこれができないの?」とか「どうしてやれないの?」とかさ。
こんなのもあった。
「この子の病気は?」って問う親に先生は「レッテルは貼らない」って。
「この子が普通の人生を送れると?」と親が問えば「普通とはなんですか?」と先生が返す。
で、先生が親に一生懸命親に言うんです。
お子さんは劣っていません。人と違うだけです。
親御さんがどう期待するかで、将来は変わる。
結婚して自立できるかもしれない。その逆もある。
だが世間と同じように最初から諦めたら、何も変わらない。
お子さんには高い能力があるのに、それを伝えるすべを知らないだけも・・・我々が聞く耳を持たないだけかも・・・
今、受験生の親の方も、受験生予備軍の親の方にも、お子さんが自閉症でなくても、ここはね、自分の解釈でいいのでもう1回声に出して読んでもらいたいってボクは思っています。
多くの親が陥る「よその子なら【苦手】で済むけど、自分の子だと大問題」の視点からでは、今悩んでいることは解決に向かわない。
いつも書くように問題が解決に向かわないとするなら、そもそもの問題設定が間違っているのではないかと問えと。
親御さんがどう期待するかで、将来は変わるんです。
自分が伝えたいことを「聞いてもらう耳」ではなく、あなた自身が「聞く耳」をもって子供の声を聴いてもらいたい。自戒の意味も込めて・・・
ボクがこの映画に引き込まれたのは、そうした会話だけではありませんでした。
主人公の父、作中では「軍人で、心理戦の専門家」と言ってましたが、その父は我が子の障害に対して、上記のような「聞く耳」を持っての対応をするのではなく、
音や光が苦手なら逃げずに慣れさせる
やさしくない世界で生きていけるようにすべきだ。甘やかさず
という考えの持ち主でした。ボクもね、我が子にはそう考えて接してきた。
それが正しいやり方だって思ってたからね。苦手なら、その苦手なものばかりをやらせて「慣れさせて」、「ほら、たいしたことないだろ」って思わせる方針をずっと採ってきた。
ボクの場合は、うまくいったとはいえないけれど・・・
いくつかのものは「やっぱたいしたことないね」とできたものもあったけれど、「やっぱたいしたことないとは思えない」と強く固く子供に信じさせることになったものもあったから。
果たしてあの方針は正しかったのか間違っていたのか。良かったのか悪かったのか。
己の伝えたいことを子供の声に聞く耳を持たず、ただ押し付けてきただけではなかったかとも思える。
映画ではこんな場面があった。「やさしくない世界で生きていけるようにすべきだ」と考える父が子供に格闘技の訓練を課すんだな。
教えるのは父親自身ではなく「家庭教師の先生」だ。おやじさんはその様子を見てる。二人の兄弟は家庭教師の格闘技教官にコテンパンにやられる。
先生「ここまでだ」
おやじさん「まだだ」
先生「明日にしよう。全力を尽くした」
おやじさん「敵を正しくとらえれば、弱点を補える。その域に達するには自分の殻を破ることだ。息子の限界を引き出したい。殻を破るのが君の仕事だ」
この場面を見て、ボクも同じようなことを考え思ってきたけれど、その「殻を破る」って言ったときの「殻」は「子供の今」から設定されたものではなく、「自分が考える普通」を前提に設定していたと思える。
「親の普通」と「子供の普通」のギャップが小さいなら、大きな問題にはならないんですよ。でも、そこに大きなギャップがあったとすると、親は「どうしてこんなことが・・・」と怒ることになるし、子供は子供で「実にしんどい人生を生きる」ってことになる。
当時は「そうしないとこの子は普通に生きられないじゃないですか」と思っていたけれど、誰かに「あなたが言う普通ってなんですか?」って問われたら、答えに窮したとも思われます。あなたはどうですか?
「今の時期ならこれくらいできなければ・・・」そのときの「これくらい」とは果たして適正だったのかと、激しく自分を問えば、やっぱり適正ではなかったとも思えるんです。ボクにとって、親にとっての適正値だったかもしれないけれど、あのときの子供の適正値としては高すぎたのではないかと。
ウチの子もまもなく社会人になろうとしていますが、今となってはハッキリと「ボクには高すぎた」と言いますし、「死にたいくらい辛かった」とも言いました。
やさしくない世界で生きていけるようにすべきだ。甘やかさずについては、今でもそう思っているけれど、
親がどう期待するかで、子供の見方は変えられるし、「破る殻」の適正値について、親はもっともっと真剣に考えて設定し、日々修正を加えていかなければならないのではないか、と思います。当時のボクは「修正の余地なし、ここまで登ってこい。殻を破れ」の一点張りだったから。
「適正値はこれね」なんて万人に適用できるものなんてない。みんな違うから。得意不得意だってあって当然だし、向き不向きもあるし。だからって「じゃあ、なにもしなくてよし」とはならないのは言うまでもない。
問題は「子供に破らせようとする殻の厚み」が「この子にとってどうか?」ってとこだから。
この映画でもう一人重要な役割を担っている財務省の捜査官が出てくるんだけれど、この捜査官が現場で暗殺者に後ろから拳銃を後ろから突き付けられて、こう問われる。もうこのまま撃たれて終わりっていう場面だ。
「キミは捜査官として優秀か?」
「いや・・・そうでもない」
「ほかには?」
「子供がいる。二人の父親だ」
「もう大人か?」
「ああ、もうみんな成人してる」
「いい父親だったか?」
「ああ、いい父親だった。冴えない捜査官だし、弱い人間だが、いい父親だった。それだけは言える」
ボクも自分に問うから、あなたも自分に問うてみてほしい。
「人生の終わり」と思われる瞬間を想像して、自らの真実の声を振り絞る。
声の主は問う。
お前はいい父親(母親)だったか?と。
究極の自己採点だ。
映画の捜査官みたく「いい父親(母親)だった。それだけは言える」と、今言えるなら、それでイイ。
しかし、もし言えないとしたら・・・・
☆レッテルは貼らない!
☆普通とは何なのか?
☆あなたのお子さんは劣っていません。人と違うだけです。
☆親御さんがどう期待するかで、将来は変わる。
「人は異質を恐れる」が、違ってるのが「普通」だから。「同じように見える」のは「同じ」ってことじゃない。
究極の自己採点の日が今日もまたやってきた。自分に聞いてみてください。
中3 ぶーぶーかあさん
1月の報告
息子は元来慎重派で、常に自分の偏差値内の学校を志望校にしようとしております。
ところが親としては、どうしても”欲”がでて、なんとか志望校ランクを上げさせたい。
そのためには、成績をあげて、本人に自信をつけさせるしかない、と考え、この一年、あの手この手で奮闘してきました。
あれから9ヶ月・・・
テスト名 = 前期期末
点数報告 = 前期期末5教科474点8教科717点志望校の学校推薦をいただきました。
報告 = 久しぶりに報告をさせていただきます。おかげさまで、第一志望校に学校推薦をいただくことができました。
7月におこなわれた三者懇で、担任の先生から、息子の第一志望校に、推薦の可能性があることを告げられ、今後なさねばならないことの優先順位が明確になり、息子と共に協力して進めてきた結果、思いもよらぬ早い時期(10月末の第二回三者懇)に嬉しい知らせをいただくことができました。
基準値とされる内申40をクリアするには、3と4しかない副教科の成績をあげ、同時に主要5教科の内申を可能な限りオール5に近づける必要がありました。
そこで、副教科は息子が、そして5教科に関しては、私が責任を持つという形で、9月末の前期期末に臨み、息子史上最高の得点をたたき出すことができました。
いま振り返れば、新学年早々の進路希望調査の時から、第一志望校を決定しており、7月の三者懇では、その志望理由も明確に担任に伝えることができたのが、とてもよかったとおもいます。
内申だけをみれば、息子以上に高い生徒さんもたくさんおられるだろうとおもうのですが、私立推薦に関しては、意思の明確な生徒から、基準値に達すれば、どんどん推薦を決定していかれるようで、あれこれまよっていると後の祭りになってしまうのでないでしょうか。
やはり、いつもストロングさんがおっしゃっているように、受験には先手必勝、先行逃げ切りという感覚が必要ですね。(省略)