こんにちは、ストロング宮迫です。
今日は東京や神奈川の中学入試初日ですね。午前、そして午後と1日2試合のダブルヘッダーの子供たちもいますし、明日以降も連戦です。
いろんな思いで受験生は今日を迎えたことでしょう。来春受験生の子供たちも受験生が歩む道を今日は受験生と一緒に歩んでいる子供も多いことでしょう。
去年受験した子供たちはあれからもう1年経ったのかと改めて思うことでしょう。すでに受験が終わった子供たちはもう次のフラッグに向かって走りはじめました。
それぞれが自分が、または親子で立てた旗に向かって走る。それも一生懸命走るんですよね。転げたり、足が痛くなったり、怠け心が出てきたり、怒られたり、うれしいことがあったり紆余曲折あっても懸命に走る。
旧暦では一年のはじまりは【立春】、今年は2/4が【寒さも峠を越え、春の気配が感じられる】とされる二十四節気の【立春】
七十二候では2月4日から8日頃までが二十四節気の初候にあたる【東風解凍 はるかぜ こおりをとく】となるようですから、ちょうど出発という意味ではいい時期ですね。
さて、その出発にあたって、この前、ものすごい寒気が到来したでしょう。鹿児島にも雪が降ったとか。
その前後でボクのところでも風が吹きまくって、雪も降ってかすかに積もりました。暴風も少しは体験しようと、いつもは行かない散歩に出てみました。
風速計を見たら14メートルって出てた。14メートルといわれる風速に向かって歩いてみた。進まない。当たり前か(>_<)
右斜め前からの風だったけれど、身体が左斜め後ろに持っていかれて前になかなか進まない。帽子が飛んでしまった。
飛んでしまった帽子を取りに走ったら、今度は風に押されてウサイン・ボルト並みに大股で走れる。走るつもりがなくても背中を風に押されて前に進む。風も14メートルも吹くとすごい力になる。勝手に身体を運んでくれるのだから。
陸上競技で風が計測されるのはうなづける。それくらい押す力、押される力の影響は大きいもの。散歩から帰って、昼前には太陽も出て、風は冷たいけれど陽が照らした場所はきれいに雪が解けて、日陰の部分にはいつまでもかすかな雪が残った。
風もすごいが、太陽っていうのもすごいなあって改めて思いましたね (^^)♪
ジワジワゆっくり照らして雪を融かす。太陽の高度が上がると、だいたい全部融かしてしまう。でも、どうしても陽が当たらない場所だけは雪が残る。それも気温が上がれば時期に融ける。
これって親が子供に接する時にも同じことをしていかないといけないですよね。
ゆっくり風を吹かせて背中を押す。子供が間違っていれば、正面から風をぶつけて進みを遅らせる。
太陽はゆっくり時間をかけて親という名の陽で照らして子供を融かす。気持ちや心ややる気や怠け心や横柄な態度を、沸騰しなくても、遠くからジワジワ照らして融かしていくんです。
一気に14メートルで風を吹かすと、また一気に陽を当てて融かそうとすると、親の側もすごく時間がかかって、エネルギーも必要で、でも一気にエネルギーをぶつけるのは無駄も生じるんです。
不必要な動きが生じる。帽子が飛ばされたり、陽を当てたつもりでも日陰になって当たっていなかったり、当てられるエネルギーが多すぎて子供のほうが全部を受けきれない場合だってあります。
だから親は一気に風を当てたり、陽を当てるよりもジワジワあてるんですよね、親の知恵として。それは改めて言うまでもなく、イソップ寓話の「北風と太陽」の話そのものですよね。
親が大変で難しいのは、ときには風にもならなくちゃならないし、太陽にもならなくちゃならないってことなんです。
あるとき、北風と太陽が力比べをしようとする。そこで、旅人の上着を脱がせることができるか、という勝負をする。
まず、北風が力いっぱい吹いて上着を吹き飛ばそうとする。しかし寒さを嫌った旅人が上着をしっかり押さえてしまい、北風は旅人の服を脱がせることができなかった。
次に、太陽が燦燦と照りつけた。すると旅人は暑さに耐え切れず、今度は自分から上着を脱いでしまった。これで、勝負は太陽の勝ちとなった。
そこから転じて、物事に対して厳罰で臨む態度と、寛容的に対応する態度の対比を表す言葉として用いられる。
これには、また別の話もある。
北風と太陽がした勝負は最初は旅人の帽子をとることだった。
最初、太陽は燦燦と旅人を照り付けると、旅人はあまりにもの日差しで帽子をしっかりかぶり、決して脱がなかった。次に北風が力いっぱい吹くと、みごと簡単に帽子は吹き飛んでしまった。
その次に行った勝負は旅人の上着を脱がす勝負だった。この勝負の結果は周知の如くである。
この別の話の教訓は、何事にも適切な手段が必要である、ということである。一方でうまくいったからといって、他方でもうまくいくとは限らない。その逆も然り。しっかり、結果を見据えて、手段を選ぶべきである。
太陽と北風の役割、どっちも子供には必要です。
陽を当てられてポカポカしてきたら、すぐ気を抜くし、鼻高々になってピノキオになっちゃうから、北風吹かせて注意を怠らないようにしてやる必要もあるし、北風ばかり吹かせて前に進まないと、すぐイジけてしまって歩みを止めたりもする。
だから親はマッチポンプとなって、火をつけたり消したり始終消防自動車で出動しなくちゃならなくなる。
でも一番イイのは、消防自動車を出動させずに、つまり火事になったり、消火活動で水浸しにしないでいいように。太陽と北風を調整して吹かしたり照らしたりできるのがいちばんだ。
ただそうはイカの●ンタマで、時には消防自動車で出動しなきゃいけないこともある。
しかし、今は太陽で照らしもしないし、北風も吹かせない親が多くなった。理由は忙しいからだという。
ちょっとでいいんです、ジワジワ照らすだけでいいのに。ちょっとでいいんです、ヒラヒラ風を吹かせるだけでいいのに。中には暴風雨並みの北風ばかりを吹かせる親も多い。
子供に対するときに「太陽と北風」はセットだ。北風ばかり、それも暴風雨だけ吹かせてどうするのよ。子供は飛ばされるに決まってる。それを「子供が反抗期なんです」で片づける。
正確には「あなたにだけの反抗期」なんだけど、「誰にでもある反抗期だから」と放置する。自分で吹きとばしておいて放置するなんて親の子供に対する拷問にしかボクには思えないけれど、恬として恥じない。
子供は学校や塾や先生や他の大人たちに「間違ってるよ」って指摘もされるし、テストが返ってきたら点数で勉強してきたことが正しかったかどうかを判定される。判定されたら直せばイイ。直さないと良くならないから。
だから「良くなる余地」がある。しかし、親は誰にも怒られない。指摘もされない。だから「自分が・・・」という視点が得られないというか、得られにくい。自分で気づくしかないんです、親は。まあ大人なんだからね。
ただ子供に大人の指摘やテスト結果という名の判定があるように、親にもある。それは今目の前にある子供の姿、言動、行動、それが親としての自分自身への判定材料だ。
「一緒に勉強しよっか?」「うるせぇー、ババア」ってなるなら、その「うるせぇー、ババア」が親としての「あなたへの判定」です。
「丁寧に書くんだよ」「知るかよ、うるせぇーなあ」ってなるなら、その「知るかよ、うるせぇーなあ」が親としての子供からの「あなたへの判定」です。
受験でD判定って出たら、考えなくちゃいけない。今向かおうとしている場所を「今考える」のは間違っているじゃないかって。その場所に向かっちゃいけないとか目標が間違っているという意味の判定じゃないですよ。
その判定や判断が出るってことは、「今やっていること」が間違っている可能性が高いですよって判定・判断が下されたってことです。
間違った道を歩き続けても、行きたい場所には行けない。アメリカに行きたいならアメリカ行きの飛行機に乗らなくちゃ。香港行きの飛行機に搭乗して「どうしてアメリカには着かないの?」って嘆いても仕方がない。
アメリカに行きたいなら、アメリカ行きの飛行機がある飛行場にまず行って、アメリカ行きの飛行機のチケットを買って乗る。いくら国際空港って言ったって、大阪国際空港(伊丹空港)で飛行機を待ってもアメリカ行きの飛行機は来ない。
アメリカ行きのチケットを買うためには、今自分たちはどこにいるのかを知らなきゃいけない。知るためには自分に下されている判定をちゃんとじっくり見なきゃいけない。受け止めなきゃいけない。
「この子はやればできると思うんですよ。すごい可能性があると思うんです」本当にそうだ。ただそれはどの子供にも言える。誰もがみんな「スゴイ可能性」を秘めてる。
でも、自分に下された判定を見て見ぬふりをしている、もしくは気づこうとしない親には、その「スゴイ可能性」は引きだせないんです。
みんな「北風と太陽」の寓話は知っているけれど、みんなそれを自分の子供には実行しない。しかし、目標は難関校!
金魚育ててるのに「どうしてクジラみたいにならないんでしょうか?」って聞かれたらみんな笑うでしょ。金魚の稚魚は金魚になるんであって、クジラにはならない。
でも、子供は金魚にもなりうるし、クジラにもなりうる。イルカだって、メダカだって、アメンボにだってなりうる!
クジラにしたいなら、クジラになるように「北風と太陽」が必要です。クジラより小さいからといって放っておいたら金魚だって死んじゃうんです。だから金魚にだって「北風と太陽」が必要です。
買ってきた金魚を3日で殺してしまう人もいれば、5年生かす人もいるんです。金魚をしっかり見てたら、必要なものが見える。少し「太陽だな」とか「北風だな」って。
子供にだって「北風と太陽」がいる。あとはどう北風か太陽かを判断するだけ。毎日ちょっと、ジワジワいくんです。その結果、判定は毎日出てる、子供に出てるから。
その判定結果を見て、北風か太陽かを判断してまた今日も当てるか吹かす。子供は1日にしてならず。しかし3年あれば固まってしまう。固まったものを壊して再構築するのは、最初に固まらせた人にはできない。
できるとすれば、日々出る子供の判定をしっかり受けて止めてジワジワやる人だけ。
この正月に二十歳になる長男坊と話をしたんですが、二十歳になったら親がしたことが全部出てる。
ボクは長男坊に「太陽」を当てることが足りなかったように思えました。「お前は寒かったのに、男なら我慢しろ、ヘタれるなって北風当ててたんだな。当時はそう思ってもみなかったよ」って息子に言いました。
「まあ、その対応としてボクは無言の反抗をしてたんだよね、数々の・・・」その数々の無言の反抗がどんなものだったかはここでは書かない。
ボクにもう1回チャンスをくれれば、長男坊をまた違った形で育ててみたいと思うけれど、もう遅い。子供は親がしたようになっちゃうからね。その課題は来世に、ボクの課題として持ち越しだ。
あなたにはまだ「確定する」前のチャンスがあるでしょ。だからそのチャンスを生かしてほしいと願います。北風だけじゃダメだ。太陽だけでもダメ、どっちもいるんです。多すぎてもダメだし、少なすぎてもダメ。
バランスのいい「料理」をするためには自分の味聞きだけに頼っちゃダメだ。人が食った感想も受け止めて、人が批評することも受け止めて、最後は自分の味聞きを信じて調味料を入れるだけ。なかなかできないけどね。
人間は実が入れば仰向き、菩薩は実が入れば俯く。稲穂は実るほど頭を垂れる。人間も稲穂くらいにならなきゃいけない。難しいけどね、頭を垂れるのは。
難しいけれど、親は少なくとも「今、目の前にる子供」それがこれまでしてきたことの判定だと考えることが大事なんじゃないでしょうかね。すべてはそこが出発点。
季節は二十四節気の初候にあたる【東風解凍】「はるかぜ こおりをとく」、親技の季節は【親陽風融子供】「親の陽と風は子供を融かす」です。新しい風が吹いてくる季節にだけ大きなチャンスがある。
問うてみてください、私は「子供を融かす」作用をしているだろうかってね。
「解答欄にこんなに空欄があっちゃあ、もったいないわよ」「記号だけはテストなんだから書いておきなさい」
こういうことを答案用紙を見ながらお子さんに話したことはないですか?
書いていれば、あてずっぽうでも、もしかしたら正解になって点数がもらえるかもしれない。だからとりあえず、わからなくても答えを書いておけ・・・
果たしてこれは正しいことなのか? あなたはどう思います? 親技の考え方を話しましょう!
受験報告 小6 Kさん
ストロングさん、お世話になりました。(先日は失礼しました、返信ありがとうございました。)
我が家の中学受験もようやく終わりました。
本人の望んだチャレンジ校には届きませんでしたが、お陰様で、親の願った本命校には合格させて頂きました。本人は悔しそうですが、本当によく頑張ったと思います。
見ているこちらがつらくなったり、言わなくてもいいことを言ってしまい後で自分を責めたりの日々が長く続きました。
何でこんなことに足を突っ込んでしまったのか、もう止めようかと心の中で思ったことが幾度もありました。
そんなときに、ストロングさんのメルマガに何度も助けられました。家内にも見せて、家だけじゃないよみんな苦労してるよと、救われたことも何度もありました。
それぞれの家庭にそれぞれの物語があって、それぞれにがんばってるんだなと思うことができました。
ありがたいことに、子供は机の前に座るのが普通になったようで、今は入学に備えて、手を付けていなかった英語をヨタヨタと始めています。
ストロングさんのおかげで、これこそが貴重な成果であると思うことができます。
これからも、毎年初心者の親達にカツを入れてやって下さい。
気温の変化が激しいですが、体調崩さないよう、どうぞご自愛ください。ありがとうございました。
受験の結果はもとより、こうしてメルマガを通じて「それぞれの家庭にそれぞれの物語があって、それぞれにがんばってる」様子を感じていただけたのはストロングにとって何よりのご褒美です。
また、受験結果以外に目に見えないけれど、確かな財産と手ごたえをどの受験生にも感じてほしいと一貫して思っています。
多くの犠牲の上に成り立ってきた受験生活を総括するのは、受験における親の最後の役割とも思います。
出てきた結果を「財産」と受け取るためには、結果が出るまでの過程と考え方が非常に大事です。
受験生の親はその準備を怠るなかれ!