IMG_8096.JPG

この前、こんなニュースを見ました。

AFP=時事  2016年5月17日

米公園で赤ちゃんバイソン安楽死、観光客の「善意」があだに

【AFP=時事】米イエローストーン国立公園(Yellowstone National Park)で、生後間もないバイソンの赤ちゃんが「寒そう」という理由から観光客に車に乗せられて「保護」された結果、母親から育児放棄されてしまい、安楽死を余儀なくされていたことが分かった。公園関係者が16日明らかにした。

オンラインメディアのイーストアイダホ・ニュース(East Idaho News)が目撃者の話として伝えたところによると、男性とその息子が先週、赤ちゃんバイソンをスポーツ用多目的車(SUV)に乗せて公園の北東端にある警備隊事務所まで運んでいった。現場に居合わせた人の話では、親子は赤ちゃんバイソンが寒すぎて死んでしまうのではないかと本気で心配していたという。

その場にいた別の人は、車からバイソンを降ろさないと大変なことになると忠告したが、2人は「耳を貸さず、バイソンを寒さから救おうと有益なことをしていると思い込んでいた」。

ところが公園関係者によると、「人の手が加わった」ため母親のバイソンが育児を放棄。そのため、やむを得ず安楽死させることになったという。公園側は「赤ちゃんバイソンを何度も群れに戻そうとしたが、うまくいかなかった」と説明している。

一方、この親子は車に赤ちゃんバイソンを乗せた写真をツイッター(Twitter)に投稿。これに対しては「大ばか者」「軽率」などと非難する声が相次いだ。

アイダホ(Idaho)、モンタナ(Montana)、ワイオミング(Wyoming)の3州にまたがるイエローストーン国立公園は、全米で唯一、先史時代以来バイソンが生息し続けている場所となっており、現在は4900頭ほどがいる。

バイソンは他の動物を襲うより人間に危害を与えることが多いとされる。公園側は来園者に23メートル以上離れることを求めているがルールは無視されがちで、昨年も近づき過ぎて5人が重傷を負っている。(c)AFP

【翻訳編集】 AFPBB News

言葉通り、「善意があだに」という話です。このニュースを見て、すぐに山本七平先生の話を思い出しました。

その話が書いてあるのは山本七平著『比較文化論の試み』という本で、40年ほど前の昭和51年(1976年)に出版された100ページ足らずの薄い文庫本です。手元にあるボクの本の裏表紙には値段が「180円」となっていて、時代を感じさせます。

すごく薄い本だけど、中身は濃く、ボクが古本屋で100円で買って、初めて読んだ大学生の時には歯が立たず、消化しきれませんでした。

あれから30年、何度も何度も読み直してきたのにまだ消化しきれない手強い山本七平先生の著作の1つです。

40年前の本なのにいまだに新刊で買えるなんて、売れ続けている証拠で、そのことがボクはすごくうれしい。

もっともっと多くの方に七平先生の著作を読んでいただきたく、

ここに山本七平著『比較文化論の試み』のうちから第1章になる「ひとりよがりの日本人」を紹介します。

山本七平著『比較文化論の試み』
※文中の太字や傍線は私自身によるものです

ひとりよがりの日本人

はじめまして。山本です。そんなむずかしい話じゃないですから、のんびりと聞いてください。

実はですね、1週間ほど前に『虜人日記』という本をもらいました。この本を書かれた小松さんという方は、フィリピンで私と同じに収容所にいた人なんですけど、その時は全然存じ上げてなかったんです。亡くなられまして遺族の方が当時の日記・記録を自費出版され、あちらこちらに配られたのが回ってきたらしんです。

この方は元来科学者で、軍人ではありませんでしたが、戦争末期に、ガソリンがなくなりましたためにアルコールからブタノールを造ってガソリンの代わりにしようということを陸軍が計画し、フィリピンにはサトウキビができますから、それからブタノールを造ろうというわけで、急に徴用され、フィリピンに連れて行かれたんです。それで、この小松さんも私達と同じように、敗戦・ジャングル・収容所を経験してきたんですけど、科学者ですから非常に的確な眼でこの状態を見ておられるわけです。

その方の書かれた中に、日本の敗北の原因を二十一挙げてあるんです。他の方が言われることとやや重なっている部分もあるんですが、非常に大きな特徴として、精神的に弱い面があったことを挙げている。これは割合に人が指摘してないんですね。むしろ横井庄一さんみたいに精神力対物質というとらえ方をする。

これがまあ、非常に変なとらえ方でして、精神力と物質ってものは両方とも尺度が違いますから、対比できないんです。この比較できないものへの妙なとらえ方ってのは、これ自身、非常に非科学的なんですが、小松さんはやっぱり科学者だけあって、そういうとらえ方はしていない。

その精神的な弱点がなぜ出てきたかという中に、「ひとりよがりで同情心がなかった」というのがあります。これは非常に面白い指摘なんです。

そしてなぜそうなったかというと、「日本文化というものが確立していないからだ」と氏は言う。したがって、日本文化ってのは「普遍性がなかった」。これまた同じことになってきますけど、他と文化的接触をして自分がいろいろの行動をしたばあいに、反省することができなかった。精神的な弱さとひとりよがりに加えて文化の確立がなかった。したがって文化の普遍性がなかったし、同時に反省する能力がなかった。これが日本がああいう状態になった一番大きな原因だと挙げておられるんです。

私などから見ますと、これは非常に適切な指摘だと思うんですが、戦後一向にそういう指摘がありませんので、これと全く違ったとらえ方がなされているわけです。

どういう捉え方かといいますと、たとえば次のような例があります。

あるキリスト教系の大学で、毎年、新入生から「宗教」に関するアンケートをとってきた。そのアンケートの中で、つねに最大の比率を占めるのが「自分は宗教を必要としない。そういうものがなくても生きて行ける。しかし、だからと言って、否定しようとは思わない。弱いものや、不幸なもの、また老人や女性には必要なものだろうと思う。だから、その点では理解もし、そういう人たちが何らかの宗教を信じることに反対しようとは毛頭思わない。それはそれでよいと思う。しかし自分は必要としない」という考え方だといわれます。

こういう考え方は、非常に普遍的で、ほぼ普通の考え方と思いますが、しかし、そう考える人に「自分がなぜそう考えるのか」という意識が皆無なことも、また普遍的なようです。

「なぜって、別に理由はないですよ。そう考えるから、そう言っただけです」がほぼ共通の言い方でしょう。

そこで、そういう考え方は、吉田松陰の考え方とほぼ同じですが、あなたは自分の考え方が、伝統的な日本的な考え方だと思ったことがありますかと質問しますと、その人たちは一様に、非常に驚いたような顔をします。時には夢からさめたような顔をするひともいます。

松陰の考え方と申しましたのは、彼が獄中からその妹に送った手紙のことです。この妹さんは松陰のことを心配しまして、安心立命のため法華経を読むように、と言ってきたのですが、松陰はそれに答えて、「自分はそういうものは必要としない、しかしおまえたち弱い女が、それを読むことは否定も非難もしない、それで安心立命が得られるなら大変にけっこうなことだ、・・・・」といった返事を書いているからです。

松陰は言うまでもなく当時の知識人であり、したがってこの考え方は、日本の知識人乃至は知識人を目指す人には、ほぼ共通した考え方でしょう。そして、そういう考え方は、日本の文化から、比較的新しい時代にいわば徳川時代に則った考え方なので、そういう考え方があって少しも不思議ではないのですが、ここに、少々こまった問題も出てくるのです。

と申しますのは、その考え方をする人が、自分の考え方がどこからきたのかということに、全く無関心、いわば「自分の考え方を歴史的に把握しなおす」ということをしないことです。そこで、「なぜ、そういう考え方をするのですか」と問いますと、「そうなのだから、そう考えるだけだ」という返事しか返ってこないのです。

としますと、その人にとって、この考え方は、世界のどこででも、またいつの時代にも、絶対に反対される気づかいのない「普遍的な真理」になってしまいます。

こうなりますと、それを、そういう文化的伝統のない社会の人が見ますと、「ひとりよがりで同情心がない」ことになります。またそれによってどんな摩擦を生じても、「自分の考え方」を「ある時代のある文化圏のある考え方」と把握しなおしていませんから、「反省」は不可能になります。

同時にこれは、相手との対比の上で自分の考え方を説明できませんから、普遍性は持ち得ません。それでいて、否むしろそれなるがゆえに、その人は、自分の考え方は、全地球に通ずる普遍性を持っていると信じてしまうのです。

そうなりますと、あらゆる現象を、自分の判断だけで見ていく。その判断だけで相手に対するということになり、時には大変こまった状態も現出するわけです。

したがって、ひとりよがりで同情心がないということになりますが、これが非常に面白いことに、一見同情心に見えるものもあるわけです。その一例として、私の恩師ですが、塚本虎二先生が「日本人の親切」っていう面白い話をしておられるんです。

先生は、日本の聖書学、新約ギリシャ語学、ヘブライ語学等の基礎を建てられた方で、日中の古典に通暁されていた碩学ですが、一面非常にユーモアに富む、面白い方でした。

この先生が若いころ下宿していた家のご老人は非常に親切な方で、ヒヨコを飼っていたのですが、冬あまりに寒かろうといってお湯を飲ませたところがみんな死んでしまったという。

先生は「君、笑ってはいけない。これが日本人の親切だ。」といっておられますが、これがですね、まさに日本的な親切なんです。

ひとりよがりなんですね。ヒヨコぐらいですとまだいいんですが、新聞の記事に保育器の中の赤ちゃんが寒かろうといってカイロを入れて殺してしまったといって裁判になったという悲しい例もあります。

学問的に言いますと、こういうのは感情移入と言うんです。自分の感情を相手に移入してしまう。そこにいるのは相手じゃなくて自分なんです。自分は水を飲むのは冷たくていやだ。するとヒヨコもいやだろうと勝手に感情移入をする。ああいう箱の中に入れられてカイロがなけりゃ寒かろうと、酸素を入れてある箱の中にカイロを入れる。爆発して赤ちゃんが死んでしまった。過失致死罪なんかになりまして、まあ情状酌量になりましたけど、裁判官はこんないやな裁判はこれまでなかったという談話を発表してるんです。

これはですね、自分の感情を充足するための行為と、相手に同情するっていうことに、区別がつかないからなんです。

なぜこういうことになってくるのか。この二つがなぜわれわれの社会ではっきり分かれないのか。

以上の例は事件が大きいですから眼を引きますけど、同じことは実は、年中行われているんです。

特にこれが非常に大きな問題になってくるのは外国に対する評論とか新聞記事です。

これを見てますと、もう完全に感情移入なんです。自分の感情を相手に移入してしまってそれを充足する。それを相手への同情ないしは共感と見なす。そしてこの二つが、混同してしまった状態は、あの韓国への評論あるいはベトナム戦争への評論などに必ず出てくるんです。

私自身覚えがあることですが、フィリピン人が言うには、日本人というのはアジアの解放とかなんとか言ってやってきたが、だれ一人「あなたたちのために私たちに何かできることがありますか」と聞いた人間はいないというんです。

他人のために何かしてやってるつもりなんですけど、そのような聞き方をしない。

ある韓国人にこの前会ったときも同じことを言われたんです。韓国の民主主義を心配するって言う。

しかし、そのためにわれわれは何をしたらいいですかということを日本人は絶対に聞かない。

これは同情じゃないんです。いわばひとりよがりです。これが小松さんが挙げたひとりよがりで同情心がないということです。

同情っていうのは英語では sympathy であり、ギリシャ語では sumpathetiao というんですが接頭語の sym つまり sum というのは英語の with の意味なんです。

ですからこれは絶対一人じゃないんです。相手との話し合いで向こうがこうしてくれと言ったらその通りにしてやる。

まあヒヨコがお湯を飲みたいと言えばお湯を飲ましてやる。そうじゃない場合、いきなり自分が相手の立場に立たない。これが日本人には非常にできにくいんです。できにくいというのは理由があるんです。

私達の社会には、今まで挙げたような例は色々ありますけど、本来は感情移入をしてそれを同情に代えてもちっとも差し支えない社会に住んでいたんです。

ですからもともと普通にはその二つを分ける必要はなかったんです。ただまあ、現在のように非常に社会が変化しまして、価値の多元化とか価値観の相違ってのが出てきますと、これが一概にそうはいかなくなったんです。だから「あなたのためを思ってやっているのに何を言うか」という言葉が必ず出てくるわけなんです。

昔はそれが同一価値でしたから、ひとりよがり、今言いましたヒヨコにお湯を飲ますといった例外でもない限り、同情と同じことになり得たんです。ところがだんだんなり得ない社会になってきたということが問題なんです。

これがまた国際的になりますと、絶えずさらに大きな問題になってくるんです。しまいには日本とは交渉できないということになってしまう。これはまあ、世界的に今ある一つのムードなんだそうですが、ソビエトでもアメリカでもほかの国々でも、日本とは交渉ができないというムードがある。

一方的に何か言うだけで一切交渉ができない。これは昔からある評価なんですが、相手と利害が対立する場合でも利害が一緒になる場合でも交渉ができない。できなくなってしまうんです。

今度アメリカに行きまして、『フォーリン・アフェアーズ』という外交専門雑誌のバーンズという編集者に会って話をしたのですが、そのとき、日米間にいまなにか問題があるのか、という私の質問に答えて、氏は「なにもない。しかし相手が日本だと、なにもなければなにもないという状態に対して、われわれは神経質にならざるをえない」といって苦笑していました。

氏によりますと、米中米ソ関係は、どんなに緊張してもわれわれは神経質にならないし、中東で何が起っても、それは「処理すべき問題であっても、神経質になる対象ではない」というのです。

では「一体なぜそうなるのか?」とききますと、「いや、それはこちらから質問したいことだ」と、逆に質問されてしまうのです。

いろいろ話したのですが、結局、どんな場合でも、一番基本になる問題は一体われわれはどういう考え方で何を前提としてどうやって生きているのかっていうことを、もう一回自覚し直し、相手に、相手の理解できる論理で説明する以外にしようがないんだ、という結論しか出ないんです。

簡単に言いますと、自分たちは「松陰の系譜の思想で生き、それを判断の基準としております」といった説明をする以外にない。

しかしそれには、まず、自分の考え方を再把握することが前提になるわけです。

ところがわれわれはそれが非常に下手、というより、そういう意識をもっていないんです。

つまりそれをしないで済む世界に生きてきたんですけど、こうなりますともう一度それを検討し再把握しないと絶えずこの問題が出てきます。

これは単に国際間だけでなく、親子の間でも出てくるでしょうし、外国人との折衝にも出てくる。

もう絶えず出てきてどうにもならなくなってくるわけです。

山本七平著『比較文化論の試み』では、上記を第1章として、以下

2.民族による臨在感の違い
3.セム族の臨在感の特徴
4.臨在感の歴史的裏づけ

と続きます。機会があればぜひ手に取ってみてください。