【坂田ジュニアゴルフ塾】の鬼塾長としてテレビでも盛んに取り上げられ、子供たちを数多くのプロゴルファーに養成してきた坂田信弘さん。この京都大学文学部中退→自衛隊体育学校入隊→プロゴルファーという奇妙な経歴を持つおじさんは、見た目の取っつきにくさや怖い感じとは違い、実にロマンティックな内面を持つお方です。それは坂田ジュニアゴルフ塾に通う子供たちを題材にしたエッセイ、コミック「風の大地」や「奈緒子」で知ることができる。このサイトでは坂田信弘著「山あり、谷あり、ゴルフあり」から親にとって参考になるエッセイを紹介します。

坂田信弘著「山あり、谷あり、ゴルフあり」の内容

このサイトで主に紹介する坂田信弘著「山あり、谷あり、ゴルフあり」という本は、2004年からゴルフトゥデイで好評連載中の「我と来て、遊べや師匠のないゴルファー」の中から50話を抜粋して一冊の本になったものです。

本の内容にはゴルフのことも含まれますが、親の皆さんに是非読んで欲しい話がたくさんあります。

50話のうち、ゴルフの内容を除いた35話は子供に接する親の方が読むとヒント満載の内容です。以下、ぜひ読んで欲しい項目には★印をつけてみました。

この本は増刷されていないようで、現在では古本でしか買うことができませんので、読んで欲しい内容のうちここに勝手に6話を紹介します。

50話の項目を以下に掲げますので、購入されようかと迷っている方は参考になさってください。

見たところ、アマゾンの古本の在庫は紹介した後すぐに売り切れ、その後高値での出品となっているようです。在庫切れ、または高値になっている場合はブックオフなどの古本屋さんでお求め下さい。
 
 
坂田信弘著「山あり、谷あり、ゴルフあり」の内容
★印は親の方に是非読んで家庭での教育に参考にして欲しいものです

 その1  「結果は問わず」1メートルは蛮勇で打て。
 その2  幾層にも厚重ねした基本を作る。
★その3  変えること、変えてはいけないこと。
★その4  1期1会。まだまだ日本にはすごい方がたくさんおられる。
★その5  追求する調和あり。

★その6  包丁研ぎの心に残る小鎚の音
 その7  刀研ぎの小鎚のタイミングでスライスが直った。
★その8  すべては次の人の為が、ゴルフエチケットの基本。
 その9  鈍感になれぬならゴルフのプロにはなれない。
 その10  グリーンの真ん中を狙う勇気と技術が攻撃ゴルフ。

 その11 ゴルフクラブは使ってなんぼですよ。
★その12 どんなに辛くても私の前で笑顔を絶やさない子、本多弥麗から教わりました。
★その13 人は世間のみんなが育ててくれる、そう弥麗から教わりました。
 その14 立ち仕事の美容師さんはアドレスが決まる。
★その15 感謝の心があれば挨拶の頭は自然と低くなるものです。

★その16 キャディさんと塾生は、1緒に泣ける家族のような存在になった。
★その17 10年前、川辺で出会った小さきゴルファーに会いたい。
 その18 いいスイングを目指せば、いいスコアが生まれる。
★その19 名指導者とは選手レベルまで降りられる人。
★その20 教育とは、教える側と教わる側の忍耐勝負じゃないでしょうか。

★その21 脳性麻痺の塾生が今春辞めました。本当に辛かったが受け入れざる得なかった。
★その22 私と妹を会わせたいがために息子はプロゴルファーを目指した。
★その23 私は多くの方の善意に支えられてプロゴルファー稼業を続けて来ました。
★その24 上達した人は自分1人の力で上達したわけではない。
★その25 どんなときでも緊張を持つというのは大切なこと。

★その26 みんなでひとつの目標に向かって1生懸命であればと思う。
★その27 世間は広い。どんな生き方をしようが所詮は井の中の蛙。
★その28 人との約束を破ったとき人は人でなくなる。
 その29 夕焼け空で18番を終えることが、プロゴルファーの最高に幸せな時。
 その30 回りたい気持ちが溜め込まれるから、試合でベストスコアが出せる。

 その31 「戻し振り」が力の溜め込みの方法。
 その32 胸をはりボールの近くに立つ構えがナイスショットを生む。
 その33 男子ツアーには「有言実行」の悪玉がいないから人気が落ちているのです。
 その34 富士山の自分の好きな向きによって、ゴルフの仕方がわかる。
★その35 体を強くしたくて、46時中、木にぶら下がっていました。

★その36 2つのことを極める事はできない。だから1つのことだけに努力して欲しい。
★その37 忍耐こそ成功の秘訣なのです。
★その38 子供との約束には、信頼の絆が見え隠れしているものだ。
★その39 皆さんが応援してくれる理由は、球打つ子供たちの夢に揺れがないからだと思う。
★その40 坂田塾は子供たちだけの世界だから上手くなれる。

 その41 1本のローソクが私のスイングを固めてくれた。
★その42 試合に出たいという気持ちが1人の子の気持ちを動かした。
★その43 不安と恐怖の中、桑原は36ホールを回りきった。
★その44 大手前大学ゴルフ部の歴史は、友情から始まった。
★その45 日本1の練習を知れば、己の今の緩さを痛感できる。

★その46 先輩への侮辱に根性ではらした平野童子。
★その47 個人競技を団体競技に変えたことで大手前大学は優勝できた。
★その48 チームワークが強い絆となったリーグ戦であった。
★その49 名誉のもとに戦うものにはプレッシャーは感じない。
★その50 坂田塾の落ちこぼれたちが日本1になりました。

その38「子供との約束には、信頼の絆が見え隠れしているものだ」

坂田信弘著「山あり、谷あり、ゴルフあり」より 


人と人の間には、約束というものがある。

法律で決められたような約束じゃなく、家族の間で自然と交わされる約束事です。

約束である限り、守らなきゃいけない。でもね、往々にして親が破ってしまう。

休日に、遊園地へ連れて行ってあげる、遠くへ旅行に行こう。ところがその約束が、親の都合で反故となる。

子供は悲しいよ。怒るわけじゃない。ただ、楽しみにしていた親との約束が破られたことが悲しい。みんな、その悲しさを抱きかかえ、我慢していく。その悲しさを、親に面と向かっちゃ、言わぬものですよ。

ところがね、父親が約束を反故にすると、子供と一緒に母親も悲しむ。そしてその悲しさは怒りに変わり、父親に向かっていく。

その結果、どう決着するかは、その家庭しだいということでしょうか、怒る母親の隣で、子供は何も言わんよ。

ただ、また約束を破られるのが嫌だ、悲しい思いをするのが嫌だから、だんだんと父親と約束せんようになる。子供なりの、悲しい処世術でしょう。そしてその悲しみは、大人になるに従って、怒りに変わっていくのです。

私は塾生を我が子と思ってきた。

子供にだけは、悲しい思いをさせたくない。だから子供とは、安易な約束はしないと決めている。目先だけの綺麗事でなく、本心で結ばれる信頼があって、初めて約束事は成立するものでしょう。

坂田塾の場合、子供たちと私の間にはゴルフがある。

ゴルフを媒介とした信頼感があって、初めて約束事も成り立つ。だから塾生との約束、守ろうとする。何があっても守り通す。

その一番の約束が、

「坂田塾におったら、プロゴルファーになれるぞ」

ということだ。

だが、これには逆に、

「プロゴルファーを目指さん子は、坂田塾には来んでくれ」

ということでもあるのです。

そして「プロゴルファーを目指す限り、毎日球を打て」と約束させる。

50球でも100球でも300球でもいい。球数の問題ではなく、絶対に毎日打てるだけの球数を決めさせる。

だからその時に「背伸びせんでくれ」と言う。

「毎日700球打ちます」と言ったって、現実にできっこない数字だ。背伸びした球数では、一日はできても一週間と続きやしない。

まして体調の悪いときなど、打てたもんじゃない。

どんなに体調が悪くても、這ってでも練習場まで来て、打てるだけの球数に決めさせる。

これが、私が子供たちに求める約束です。

そして私から子供たちへの約束が、「必ずプロにする」だ。

多くの子が250球とか300球と言ってくる。その球数を毎日打つ。毎日とは、そう1年365日の毎日だ。盆も正月もない。

入塾したら、とにかく毎日打つ。毎日その球数を打ち続けた者、つまり約束を守り通した者が、トップアマとなり、そしてプロテストに合格していく。

ただこの「毎日の球打ち」の約束は、私が塾生に要求した約束だ。子供から申し出てきた約束じゃない。

でも、過去に一人だけ、自分から言ってきた者がいた。それがね、上田桃子だった。

上田は、「毎日400球打ちます」と言ってきたよ。

小学5年のときだった。

「お前、そんなに打てるか?」
「打ったら、プロになれるんでしょ?」
「ああ、なれる」
「だったら、打ちます」

自分から約束の球数を申告してきたのは、後にも先にも上田だけです。

いくら何でも小5の女の子だ。1期生の古閑美保たちだってまだ中学生だったのに、小5の子が申告してきたのです。見事なる覚悟でしたネ。

「自分で決めた球数を毎日打ち続けていれば、必ずプロになる」と教えたのは私です。

私はその約束を守るために、厳しくも当たった。スイングの悪いところ、ここだけは変えなきゃいかんというところについては、殴りもした。

言葉でいくら言っても、頑固な部分は直らない。だから殴り、その悪い部分に痛い思いをさせる必要があった。鬼にでも、何でもなると、私は思った。

その結果、子供たちは強くなった。そして成功していった。

子供との約束は、そこに信頼がなければ成立しない。

その人間の存在が、その子の心の中で大きなウェイトを占めていなければ成り立たないものだ。

私との約束は、塾長との約束だ。

でも子供同士の約束ともなっていっている。

絶対に、破り破られることのない約束となっていったのです。

そんな約束をするということは、少なくとも、一人の友を持つということです。

5人と約束したならば、5人の生涯の友を持つことになっていく。

私は、子供たちにそう教えてきた。

だからね、「約束」というもの、軽々しくはできない。

「だから約束は、慎重にせいよ。そして、したからには覚悟せよ」と話します。

我々大人はいつも約束する。いつでも破れる約束で、障子紙よりも溶けやすい約束だ。

でも、子供たちの約束は違う。特に塾に入った子供たちとの約束は、必死の約束だ。だから私は、いつも子供たちに言っております。

「お前たちをプロにする。そしていつの日にか、世界中、いろんなところを旅するプロゴルファーになってくれよ」と。

今年迄、塾出身者33名がプロテストに挑み、27名がプロテストに通りました。

男子9名、女子18名の合格であり、合格率は8割1分8厘です。落ちた6人もいずれは通ると思います。

何故ならば私との約束、友との約束を守ってきた者たちです。

そして来年、その6人に新たなる挑みの者たちが加わって、プロテストに挑んでいくでしょう。

約束を守った子供たちが......。

皆さんも勉強の約束をするでしょうが、その約束って、

子供が○○します!

という約束で、それに対する「親の約束」ってないんじゃないでしょうか?

子供ばっかりに約束させる!なんてことはないか?

いかがでしょう?

子供が○○します!
そして、それをやったら、絶対成績を上げます!

こういう親はあまりいないですなあ・・・

文中にあった


絶対に、破り破られることのない約束となっていったのです。

そんな約束をするということは、少なくとも、一人の友を持つということです。

これはイイ話ですねえ。

友ではないけれど、鉄の意志で「鉄の約束」を実行している家庭は厳しいけれど、親子の信頼関係がしっかりしているのは、このあたりの感覚に似ているのではないかと思いました。

その37「忍耐こそ成功の秘訣なのです」

坂田信弘著「山あり、谷あり、ゴルフあり」より

「誰でも良かった...」、と言う。

最近頻発する、無差別通り魔事件の犯人たちに共通する供述だ。凶悪犯罪は、昔からあった。しかし昔は犯人なりの、もっと明確な犯行動機があったように思う。しかし今、凶行に走らせる動機は極めて不透明。「むしゃくしゃして」「大きな事件を起こせば注目されると思った」では、あまりに幼すぎて理解しかねる。

私には、そうした反社会的犯罪の根本原因がどこにあるのかわからない。

ただ一つ言えることは、人間が生きていくうえで、何が一番大切かといえば、それは忍耐力と思う。

忍耐力がない、耐性が養われきれぬうちに年齢だけ成人し、社会人として世の中に送り出されたら、どうなるか。

仕事先で思いどおりにいかぬことがある。
嫌がらせを受けた。
つまらない。
その解決手段が、その職を辞めること。

そして次の仕事に向かう。
だが新たな職場でも、思いどおりにいかない、つまらないと言って、また辞める。

その繰り返しのその果ての凶行とは、ちと論理が飛躍しすぎか。

でもそう思えて仕方ないのです。

社会の仕租みからして、本当に意欲の持てぬ職業が増えているのかもしれないが、「嫌だから辞める」では、物事は何一つ解決しない。それだけは間違いないことと思う。

世間のことはわからぬが、ことゴルフに関しちゃ、忍耐力こそ成功の秘訣です。

その忍耐力の源となっているのが、根気なんですよ。

根気は生まれながらに人間に備わっているものじゃない。これは大地を耕すように一鍬ずつ入れながら作るものなんだ。その始まりが、箸の持ち方から入る食事の作法であり、鉛筆の持ち方、そして幼稚園や小学1年の頃に始めるお稽古事なんです。
 
いろんな稽古事がある。
週に五日、算盤やったり、コーラスやったり、バレーだったり、水泳だったり。

そういう子供は、一見恵まれているようでいて、実は根気というものを耕す機会を失っているのです。人間の能力、同時にいくつものことを成功させるのは困難と思う。レベルが高くなるほどに複数の成功の可能性は低くなっていこう。

一つしかできない。上手くいって二つまでだ。その一つを徹底的にやればいいんです。

週に五日、5種類の稽古に通ったら、子供だってどれに気持ちを入れていいかわからなくなる。稽古事を数多く与える親は子供がその稽古事、嫌だといえば、さっさと辞めて次のお稽古を見つけてくるだろう。

先生との相性が悪いと言ってはお稽古先を変える。これじゃね、とても根気は耕せん。ましてその先の忍耐力など、とてもとても養えたもんじゃない。根気畑に忍耐の花は咲くものだけど、硬い畑に咲くは小さな花ばかり。

大きな花を咲かせたけりゃ根気畑を耕やさなきゃならんのに、その耕す機会が失われていく。

だからお稽古事は一つでいい。でも一つを絶対に辞めさせない。
6年は続けさせたい。6年間も同じコトを続けさせればね、たとえそれを辞めたとしても、その子には財産が残る。忍耐力を生む、根気というとっても大事な財産が残るのです。好き勝手が巡る世の中なんてありやしない。

思いどおりにならないから嫌だという奴は阿呆だ。
その阿呆のやることに世間が迷惑している昨今、耐性の薄さ弱さが強く問われているように思うのです。

大人は、耐性を身につけている。現代社会でその耐性が備わっていない成人が増えたとすれば、それ
は親の責任である。幼年期から少年期にかけて6年間、少なくとも3年間は同じことさせなきゃいかん。

入塾選考会面接時に聞く、これまでお稽古事をいくつやってきたか、と。すると自慢げに指祈り始める親がいる。

それじゃ、ダメなんですよ。

いくつものお稽古先がある、何度もお稽古先を変える、あるいは種類を変えていたんじゃ、その子の根気は育たない。当然、感謝の気持ちなどはどこにもない。誰かを信じる気持ちも薄らぐし、お稽古先の先生や仲間への気持ちも薄くなる。あくまで自分本位な考え方が根付いてしまう。

周囲に目を配ることもなくなれば、平気で周りを裏切るようにもなる。これはね、子供ではなく、まず親ですよ。親が子供の人間関係を裂き、先生や仲間との信頼や期待を裏切らせてしまう。我が子ばかりを見ていると、人様の持つ夢も情も寛容も優しさでも、見る事のできぬ人間となっていくのは確かだろう。

とはいえ子供は、中学生にもなれば親と一緒にいるよりも、他の人間といる時間の方が長くなる。

そうなれば、自ずと世間に育ててもらわなきゃいけなくなる。その時に、根気がない子じゃ、世間にしがみついていられない。

すると、どうなるか。

人の集団は端から競争力を持たぬ人間となっていく。そこのところ、親は十分に認識しなきゃいけないはずだ。

だからね、親にも子にも、覚悟がいりますよ。今の時代、何でもできます。それでもあえて、一つに絞り込まなきゃいけないのだから。

ある時、塾生に聞いてみました。

坂田塾の他に稽古事しているかと。

するとね、やっぱり二つ三つと掛け持ちしている子がいた。
でも次第に他を辞めて、ゴルフー本に絞っていくことができれば根気は育ちます。

辞めることができずに隠れてやっている子は、結局、何にもならずに退塾していった。中途半端すぎたん
です。

やはり親にも子にも覚悟がいる。

小4から中3まで、最低6年問、坂田塾でゴルフをする。そのためには、何かを捨てなきゃいけない。覚悟とは、他を捨てることだと思う。そういう覚悟を待って入塾してきたら、ゴルファーとして成功を収められます。プロゴルファーを目指すなら、プロになれる。それは先輩たちが証明してきたことです。

私は坂田塾というゴルフ塾を主宰しちゃいるが、世の中には他のスポーツも芸事も何だってある。何でも
いい。ただね、幼年期から少年期、そして青年期の間、一つ事をやり抜いて欲しいのです。しがみつきは、大切ですよ。

ライオンは我が子を千尋の谷に突き落とすというが、突き落とされた子ライオンは、崖の岩肌をつかむ爪を持たない。だから谷底だ。そして谷底で爪を磨き、脚力を鍛えて頂きを目指す。用は忍耐だ。

人もそれだと思う。忍耐の力、老いなければ70歳も青春。挑戦の力を持ち続けることできると思うのです。

今、私は子供の根気を作るは親の役目、養うも親の役目。そして根気を鍛えるのは世間の役目という気がしているのです。

坂田ジュニアゴルフ塾とは?

坂田信弘さんは、ご自身の経験と指導者としての才能を活かして坂田ジュニアゴルフ塾
主宰されています。

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坂田ジュニアゴルフ塾とは、

「ゴルフを国民的スポーツにしたい。日本のゴルフ界のレベ ルを上げたい。それには、日本から世界に通用するトッププロを育てることが一番の早道であり、ジュニアからの英才教育が 大切」として1993年に坂田ジュニアゴルフ塾を開校。

坂田塾長を頂点に現在全国6ヶ所で運営し小学校3年生から高校生までの約200名が坂田理論を基本に日夜練習に励んでいます。

このサイトで紹介するのは坂田塾長がジュニアゴルフ塾で子供たちを指導する際に感じたこと、
出会った子供たちのお話です。

坂田ジュニアゴルフ塾はテレビ等で多々取り上げられおります。
たとえばこんなふうに・・・

 
 
 

 
 
BS-TBSより

坂田が叶えられなかった夢を受け継ぐ、坂田塾の生徒たちは、世界の頂点を
目指して、全身全霊、ゴルフに打ち込んでいる。

坂田塾の厳しい掟
―練習は365日休みなし。
―携帯電話の所持は禁止。
―親の、塾への干渉は厳禁。
―18歳までは恋愛禁止。
―茶髪・ピアスは即退場。
―国語と英語はクラスで一番をとること。もしなれなかったら退塾。

その理由は「国語ができなければ日本一になれない。英語ができなければ世界一になれない」からだという。
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そして坂田塾で、もっとも重要視されているのが「挨拶」である。その「挨拶」にも坂田流理論がある。

ゴルフとはバックスウィングで大きく息を吸うことが大きなポイントである。大きな声で挨拶をするためには
息を大きく吸わなければならない。そのためにいかに大きな声で挨拶が出来るかが大切なのだ。

その12「どんなに辛くても私の前で笑顔を絶やさない子、本多弥麗」


坂田信弘著「山あり、谷あり、ゴルフあり」より 

北の大地が雪に覆われる季節となった。

この時季になると、一人の塾生を思い出す。札幌のジュニア塾生だった本多弥麗である。

小学4年で入塾し、いつもニコニコとしていて、ゴルフに一生懸命な子だった。

その弥麗が、6年のときに学校の体育の授業でヒザ周辺の小骨を折ってしまった。

手術したが、結局1年と8ヵ月、ゴルフができなかった。その間、弥麗は月1回の合同練習にやって来た。

真冬でも、1回も休むことなくやって来た。

札幌塾、冬場の練習の球数は150球までである。夏は好きなだけの球数を打たせて貰ってきた。

札幌の練習場、夏は痛みが出ていない球、新球を使う。そして冬は二夏、三夏と使った、旧球を使う。

夏の集球は簡単だが冬は大変だ。

雪、降らぬ夜、吹雪がない夜、ゴルフ練習場の職員の方が雪の中に埋まりし球を足の裏で掘り出しての集球となる。

冬の札幌塾、感謝の気持ちなしでは踏み込めぬ領域である。

そうして拾い集められた150球は、夏場の1000球に相当する値打ちがある。

冬場の合同練習も、そうした環境で行なわれて来た。しかし弥麗は球が打てない。それでも合同練習に来た。

ジャンパーを着込んで、仲間をジーと見ていた。私は言った。

「お前家に帰って勉強でもしていたらどうだ。ここにいても球が打てんのだし」
「いいえ、私、みんなの練習を見るの、楽しいですから」
「そうか、早く治したいな」
「はい。早く治してみんなと一緒に球を打ちたいんです」

弥麗はいつものようにニコニコしながら答えてくれた。イヤな顔ひとつしたことがない子だった。


当のご本人の本多弥麗オフィシャルブログ
2011年12月11日付のブログでは、
こんなふうに書かれていました。
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ゴルフをしようと思ったきっかけは
やはり坂田塾の募集でですね

母から募集をきいて
習い事感覚で面接にいったのが
きっかけだったんですけど

習い事みたいなあまいものじゃないし
坂田プロこわいし(笑)

まぁだから本気になれたんですけど

面接の帰り道、坂田プロが
怖くて泣いたのを覚えてます(笑)

10歳の私には衝撃的だったんでしょうね

坂田プロには本当に心から感謝してますけど
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弥麗も球を打つときが来た。

しかし1年8ヵ月の遅れは大きかった。

同級生がふたりいたが、その子たちはどんどん上手になり、弥麗はいくら練習してもふたりに勝てなかった。

中学校でも高校でも、弥麗は一度も北海道を勝ち抜いて全国大会に出場したことがなかった。

いつも先輩とか同級生とか後輩が全国大会へと向かって行った。

確か弥麗が中学3年の冬だったと思う。

弥麗の母親が私のもとにやって来た。

「もう十分です。辞めさせてください」

母親はじっと下を向いたままだった。

弥麗は母親と兄ふたりの四人暮らしだった。

私は、問うた。

「小学校のとき、球が打てない体でもニコニコ笑ってみんなの練習を見て、とことこ私のあとを付いてきた。そしてようやく打てるようになった。そりゃ1年8ヵ月の遅れは大きい。いくら練習しても追いつかない。」

「そういう状況であっても、弥麗は私の前ではニコニコ笑って球を打っていた。真剣に、しかも笑顔を絶やさずにだ。その子にどうしてゴルフを辞めよと言うのか」

と、聞いた。

母親は、「涙です」と言った。

「涙だ?」

「朝起きると、枕元のシーツがびっしょり濡れてました。ずっとそうでした。特に坂田塾長がいらっしゃった合同練習の翌日の朝、いつも濡れていました」

いつも一生懸命やっていた。でも成績が上がらない。

やはり辛かったのだと思う。

そして母親はこう言った。

「親として、娘の辛い姿を見るのにもう耐えられません」

私は言った。

「本多弥麗が涙の一粒も見せたり、もうダメですと言ってきたら、退塾させる。そうでなければ退塾させん。あんたはもう、口出しするな」

母親はそのとき号泣されておりました。

そして最後に「ありがとうございます。本当にありがとうございます」と言って帰って行かれた。

それからのち、私は弥麗をしごきました。

「この程度のことができんのか」と叫びながら、殴りもしました。

周りの者は、私を鬼と言ったよ。

でも私は、弥麗に強くなってもらいたかった。徹底的に基本だけを教えた。6番アイアンだけを教えた。

高校2年の冬、本多弥麗が札幌塾の来季のキャプテンになった。

やっぱり弥麗がいちばんヘタでしたから。

ジュニア塾ではいちばんヘタクソがキャプテンとなる。いちばん上手い者がキャプテンなら、すべてが滞りなく進む。

物事の伝達を考えても、強い者からなら、簡単に伝わります。しかしそれは指導者の都合。

私はそれじゃダメだと思った。

だからいちばんヘタクソをキャプテンとすることにした。

下手な者がキャプテンとなると、みんなにモノ言わなくちゃいけないから必死に練習する。

すると同級生らは「あいつがそこまで練習するのなら、俺らも協力しよう」という気になる。ここに横のつながりが
できる。

そして後輩たちは「先輩があそこまで練習しているんだから自分たちも」と、上を見て学ぶ機運が生まれる。

子供社会ではあるけれど、ここに横の糸と縦の糸ができ上がる。

だから私はいちばんのヘタをキャプテンにしてきました。
(省略)
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話はまだまだ続きますが・・・・

ニコニコ顔の子供だから、「きっと楽しんでいる」とは言えないのではないでしょうか。

「ウチの子は毎日楽しそうにやっています」とよく聞かされますが、本当なのか?

枕は濡れていないか?
一瞬寂しそうな顔を見せないか?

ここに出てくる本多弥麗選手のお母さんはそれをちゃんと見ていた、わかっていたということですよね。

そこがポイントなんだと思うんです。

毎日顔を合わせるのは親ですから。

これまでたくさんの2つの顔を持つ子供たちに会ってきました。

親が持つ認識とはまったく別の顔を持つ子供たちです。

その子供たちの抱える問題は解決してやれない。

でも、それに気づいてやるだけで、話をきいてやるだけで子供は涙を流した後に、また前向きに頑張る、頑張れる。

妙な不安を持つ必要はないけれど、ときに枕が濡れていないか?と心を配ってやったらいいですね。

その25「どんなときでも緊張を持つというのは大切なこと」

坂田信弘著「山あり、谷あり、ゴルフあり」より

これまでジュニア塾生たちのクラブ競技参加や大人の方との懇親コンペ、プライペートラウンドは許可して来なかった。例外は九州アマや日本アマ、日本オープンなどの公式競技に限っていた。

したがって塾生のコースラウンドはジュニア同士のみであり、塾生が大人のゴルファーの方と接する機会は極端に少なかった。しかし高校生活を終え、坂田塾を卒塾すれば、当然大人社会の一員に組
み込まれていくし、プロゴルファーになればプロアマ戦もある。

必然その準備は必要となった。そこで2006年から、一部大人の方々とのゴルフを解禁した。ただ個人戦は許可せず、団体戦のみ許可した。

(省略)

10月上旬、徳島の大学医学部同窓の方々と対戦したときのことである。神戸の塾生を連れて行った。

中学、高校の女子塾生7名。相手はお医者さんチームだ。神戸から徳島へ、高速バスでの移動の2泊の旅だった。

塾生たち全員は、相手チームのお宅にホームステイさせてもらった。対抗戦は終わり、2泊した朝、塾生はホームステイ先のお宅から、クルマで高速バス停まで送って貰った。神戸に渡ることとした私も、そ
の高速バスに同乗することにした。

私は子供たちより一足早く鳴門のバス停に着き、私がお土産売り場で時間を潰していた。子供たちが来た。子供たちは私に気付かず、階上にある搭乗口に向かって行った。その姿を見届け、私も階上へと向かった。階上の搭乗口で、あらためて子供らを見た。

7人中5人がジャージ姿だった。
 
坂田塾では、ゴルファーとして移動する場合、中高生は制服と決めている。小学生はブレザーだ。ジャージ姿の5人は、神戸のバス停まで親が迎えに来る予定にしていた子供たちだった。電車を乗り継いで帰る2人は制服姿だった。

子供たちは搭乗口前のベンチに座っていた。そして座ったまま、私に挨拶してきた。 

私は即刻、搭乗口の脇にあった待合所で着替えさせた。周りには、笑っている人もいたし、眉をひそめる人もいた。私は「着替えろ」とだけ言った。5人は黙って着替えた。

なんと緩んでいることかと思った。

その時、私は何も言わなかった。

ただジャージー姿を制服に着替えさせただけだった。高速バスは予定通り到着し、発車し、何事もなく神戸に着いた。
 
私は2週間後、神戸での合同練習の時ジャージー姿だった5人の親を呼んだ。
 
「私生活が、緩みすぎている」

私は親たちにそう言った。

バスに乗っているから誰にも見られぬという理屈は通らぬ。中学、高校の女子生徒がジャージー姿でキャディバッグを担いでバスに乗ってきたら、他の同乗の方々がどう思うか。国体の県代表のようなネームの入ったジャージー、スポーツクラブの制服としてのジャージーならいい。だがバラバラのジャージーは、まるで寝巻きじゃないか。そして師匠を迎えて座りっぱなしの挨拶とは何事か。
 
節度がなさ過ぎる。

私は5人を退塾させる意向であると伝えた。5人は皆がみな、許してくださいと言ってきた。全員が泣いていたよ。

みんな、始めからわかっていたようだ。

徳島からの帰りのバス停でのこと。
着替えろと命じられた瞬間、5人は自分等の誤りに気付いたという。
5人は3ヵ月の練習禁止を覚悟した。

ところが、私が何も言わない。

何も言わぬ私に対し、5人は普段以上の恐怖を感じたと言う。辛い2週間だったと思う。

子供たちには、自分が悪い、あるいは自分のやっていることがおかしいと言う予感を察知したら、すぐに
行動に起こせと言って来た。

みんなと一緒にいるから、そのカンが鈍る。もしも一人だったら、誰もジャージー姿でバスに乗ろうとは思わない。ルール違反であっても、みんなでやれば恥ずかしくない。

私は言った。

「『赤信号、みんなで渡れば怖くない』、これは面白い言葉じゃあるけれど、もっともやっちゃいかんことな
んだぞ」

「1円玉も1万円札も、落ちているものをポケットに入れたら、それは盗みだ。盗みと言う事実を見なきゃいかんのに、1円だからいいや、しかし1万円は駄目だという安易なる状況判断するから行儀が悪
くなってしまうのだ。そこを考えろ」
 
こうした気の緩みは、ゴルフに悪い影響を及ぽす。
 
「練習ラウンドだから、1ストロークはどうでもいい。試合だから1ストロークを大切にしなきゃいけない」

そう考えた時点で、ジュニアたちのゴルフは汚れる。

私は言った。

ゴルフを汚したいのか。今までの練習に泥を塗りたいのか、と。

子供たちは、ポロポロポロポロ涙を落とし続けていた。

親たちにも話しました。

「子供から迎えを頼む電話が掛かって来た時、『きちっとした格好で帰ってきなさい』という一言が、なぜ
言えんのか。そのために辛い思いをするのは、子供なんだ。もっと緊張感を持って子供と接して欲しい」、と。
 
私は謹慎処分も練習禁止処分も取らなかった。

その後、子供たちは必死になって練習に取り組むようになった。

緊張を持つことは大切なことなのだと思う。

バス停での子供たちの態度と服装。それを見た私の一言と、2週間後の指導。5人にとっては、とてもいい徳島への旅だったと思っています。

坂田信弘とは?

週刊ゴルフダイジェストで紹介されている坂田信弘プロフィール

京大中退からゴルフを目指した異色プロゴルファー。主として週刊ゴルフダイジェストを根拠として漫画の原作、競技観戦記、レッスン書、レッスンビデオなど八面六臂の活躍をしているが、現在は次代のゴルファー育成のため開始したジュニア塾の塾長として脚光を浴びている。スウィング型を作るための「ショートスウィング」を提唱。

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Wikipediaに出ている坂田信弘プロフィール


1947年10月11日生まれ。熊本県熊本市出身のプロゴルファー、漫画原作者。ジュニア・ゴルファー育成組織である「坂田ジュニアゴルフ塾」主宰。

京都大学在学中に親が亡くなり、残った家族に仕送りをするために中退して自衛隊に入隊した。任期満了退職後はプロゴルファーになるため、研修生生活を経験、28歳でプロテストに合格した。

プロ転向後、しばらくはツアープロゴルファーとして活動していたが、獲得賞金は276万1799円であった。

その後、作家・レッスンプロゴルファーに転向して才能が開花する。坂田自身が自衛隊員として活動していたこともあり、そこで培ったスパルタ教育を生かして厳しい指導をすることでも大変有名だが、多くのプロゴルファーを輩出しており、名指導者としても知られていることから、たびたびテレビ番組で取り上げられている。

1966年 - 兵庫県立尼崎北高等学校卒業。
1967年 - 京都大学文学部東洋史学科中退。
1969年 - 自衛隊体育学校に特別体育課程学生として入隊。
1971年 - 陸上自衛隊を任期満了退職し、栃木県の鹿沼カントリー倶楽部にて研修生生活に入る。

1975年 - 28歳でプロテスト合格。
1984年 - トーナメント生活の傍ら執筆活動開始。
1988年 - ナイジェリア・イバタン・オープンにて優勝。
1993年 - 坂田ジュニアゴルフ塾を開校。
1994年 - 『風の大地』で、小学館漫画大賞受賞。
1996年 - ゴルフ界特別功労賞受賞。


 
 
BS-TBSで紹介されている坂田信弘プロフィール

22歳、苦学生だった京都大学時代、坂田は自分が進むべき進路に悩んでいた。そして恩師、当時、京都大学助教授だった森毅に相談を持ちかけた。森は、坂田を見つめ、こう答えたという。

「お前、プロゴルファーにならんか?」

この年、ゴルフ界に"ジャンボ"の愛称で親しまれる尾崎将司がデビュー。新しいスターの登場に沸いていた。そして、青木功とともにゴルフブームを巻き起こしていたのである。

プロゴルファーを進路と定めた坂田は、しかし何故か、自衛隊に入隊するのである。それには、坂田流の"もっともな理論"があった。"給料をもらって飯を食いながら、自分の身体を鍛え上げるのにうってつけの場所は、自衛隊しかない!"という。

2年で満期除隊した坂田は、そこからはじめて、本格的なゴルフ修行をはじめる。プロテストを受けるために、鹿沼カントリークラブの研修生となり、そこではじめてゴルフクラブを握ったのである。

24歳からのスタート。プロを目指す常識から6年遅いと言われていた坂田は、そのハンデを努力で埋めるべく、懸命にゴルフに集中した。そしてこの時から、坂田流のゴルフ理論は構築されてゆくのである。

それから3年11ヶ月後、坂田はプロテストに見事合格。当時としては異例の早さだった。しかし、ツアーで頭角を現すという"夢"は、ついに叶わず、ツアープロとしては、わずか一勝しかあげられなかった。

文才があった坂田は、雑誌や新聞にコラムなどの連載をはじめる。独自に培ったゴルフ理論でレッスン書を著わし、その具体的で明快な指南が人気を集めた。また『風の大地』など、手がけたコミックの原作が大ヒット。執筆活動で、たちまち莫大な収入を得るようになる。

しかし、ゴルファーとしての坂田は、「今度予選落ちしたら引退パーティーを開いてやるよ」と同僚たちに言われてしまう始末だった。

そんな時、坂田の元に故郷・熊本に開校するジュニアゴルフ塾の塾長就任の依頼が舞い込む。
その明快なレッスン法で、未来のトッププレーヤーを育てて欲しい!

自分が成し遂げられなかった夢を次の世代に託す!坂田は快諾した。
そして坂田は、この夢に、年間7000万円もの私財を投じることになる。
そしてこれが、坂田のライフワークとなる。現在、坂田ジュニアゴルフ塾は、全国に6カ所。およそ350名の生徒が学んでいる。

その22「私と妹を会わせたいがために息子はプロゴルファーを目指した」

もう余計なコメントは挟みません。

「親ってなんなのか?」皆さんがそれについて考えるヒント
になれば、本を一生懸命入力した甲斐もあるというものです。

坂田信弘劇場、どうぞ!

坂田信弘著「山あり、谷あり、ゴルフあり」より
その二十二

※このときの今は2007年のことです。


私の長男は、ツアープロを目指しての修行の身であります。

プロゴルファーの息子だからプロを目指す。その考えと行きゆく流れ、当然と言えば当然でありましょうが、実情は違っていました。

私は、息子がプロゴルファーを目指した理由を知らなかった。

03年3月に放映された「ゾーン」と言う番組の放送時まで、知りませんでした。

番組で、息子はプロを目指した理由を語っていた。

雅樹が小学4年のときの出来事。長女寛子は小学1年だった。

当時私達は福岡県豊前市中村の雇用促進住宅で暮らしていた。

ある日の午後、雅樹が学校から帰ってきた。寛子が住宅の砂場でひとり遊んでいた。

「ひろこ!」と雅樹が叫んだ。

普段は「おにーちゃ-ん」と兄の元に駆け寄る寛子が、そのときはうつむいたままだったという。

寛子はうつむいたまま、泣いていた。

雅樹はその場にしゃがみこみ、「苛められたんか」と聞いた。

寛子は激しくかぶりを振って、呟いた。

「お父さんに会いたい」

この時、小学4年と1年の兄妹二人、どうしたらお父さんが家に帰ってきてくれるかを砂場の中で相談した。

その頃の私は、ツアーを追いかけるだけの生活だった。予選を通れば土、日曜日、家へは帰れない。

しかし私は予選を落ちても帰りはしなかった。

帰る為の交通費は勿体ないと考えていた。その時間を勿体ないと考えた。総てを練習と翌週のトーナメントに当てていた。

小学校も高学年になろうとする雅樹は、野球に夢中だった。父親がプロゴルファーとは言え、ゴルフなんぞに何の関心持っちゃいなかった。

しかし二人で相談したその結論が、

「僕がプロゴルファーになりたいと言えば、お父さんは僕にゴルフを教えるために、今よりは帰ってきてくれるかも知れん」だった。

あるとき、雅樹は私に「プロゴルファーになりたい」と言ってきた。

「そうか......」と答えた私は他には何も言わなかった。

雅樹は野球の友達と分かれ、独りぼっちのゴルフの道に入っていった。

私は雅樹に自分の使い古しのクラブを渡した。太いグリップのクラブです。

シャフトも硬いX。それを小学4年生に使えと言った。子供に対して無頓着すぎた。残酷だった。

少なくともシャフトだけでも柔らかく、グリップだけでも細く替えてあげれば良かったと、今になってそう思う。

雅樹は太くて硬くて長いクラブで球を打ち始めた。

そのため左ヒジを曲げて打ち始めた。本能的にそうでなけりゃ打てないクラブだった。

雅樹は今、28歳になるが、未だにそのクセが残る。そのクセをなくすために、雅樹はずいぶんと時聞を費やしていると思う。

私の無知、無頓着が子供に背負わせた結果だった。

私はその後も家に帰りはしませんでした。

旅から旅の生活を送っていました。

雅樹のことも結局、放ったらかしだった。

その雅樹に初陣の時がやってきた。

九州ジュニア選手権である。中学1年となった雅樹は、優勝を目指した。

優勝できずとも3位までなら全日本ジュニアに出場できる、そこを今回の目標とした。

初日のスタートホール、雅樹はティショットでOBを打った。トリプルボギー。そして2番、3番、ダボだった。スコア80。

雅樹の初陣は終わった。ラスト3ホールは、いかなる奇跡が起ころうとも、どうにもならんスコアだった。

己の夢、破れる。

そのことを一歩一歩の足取りで自分の体に叩き込んでいったラスト3ホールだったと思う。

今の、私であるなら雅樹を褒める。

出だしで崩れ、それでも80で上がったじゃないか。4香から18番まで1オーバーは立派だったと。

でもそのときは褒めることはできなかった。

私は結果だけを見る男だった。

80というスコアだけを見ていた。父に帰って来てと無言で訴え、大好きな野球までも辞めた我が子の気待ちがわかっていなかった。

時、過ぎて久しぶりの帰宅。

雇用促進住宅に戻っていた私は、夕方、雅樹が中学から帰るやいなや、玄関の板の間に正座させた。

雅樹は帽子を取った。あいつはずっと坊圭頭だった。

私に叱られるのを察知した雅樹は、両手を握ってヒザの上においていた。女房が、雅樹の右横に座った。寛子は左横に座った。

寛子は小学4年になっていた。

私は言った。

「日ごろの生活、日ごろの練習、日ごろの勉強、全てが中途半端だからこんなスコアになるんだ」

「世間は、中途半端なヤツを応援しない。万が一お前がプロになったとしても、それはまぐれであって世間の迷惑になる」

雅樹はじっと下を向いていた。女房も寛子もうつむいていた。

そして私は口にしてはいけないことを言ってしまった。

「父として、プロゴルファーとしてのお願いだ。ゴルフを辞めてくれ」

その瞬問、雅樹はボトボトと涙を流した。私は男が泣くのかと叫んで、丸刈りの雅樹の頭を拳骨で殴った。

3発、4発。雅樹は声を上げて泣いた。

寛子が私の右足にしがみつき、

「おにいちゃんを苛めるのはいやだ」と叫んだ。

私は寛子を突き飛ばした。寛子は泣き叫んだ。女房が顔を上げた。その目がとても澄んでいたことは覚えています。

「雅樹を育て間違えたのは私の責任です。謝ります」と言った。家に帰って来ない亭王に謝ってきた。私は子育てなんて一回もしていない。

それでも女房は謝ってきた。女房は静かな声で言った。

「でも雅樹の人格までも否定されると、これから3人、どうやって生きていっていいか分かりません。それだけを教え
てください」

何も言えなかった。

そして私は雇用保進住宅を飛び出していった。

旅から旅、ホテルのベッドで横になっていると、あの日を想い出す。

右の拳に、雅樹の頭の柔らかさと暖かさが残っていることに気づく。

消そうと思ったが消せない。謝って、それで消えてくれるのならとも思うが、あまりに時間が経ちすぎた。

ならば私が死ぬまで持って行こうと思ってます。

この項つづく・・・・

その23「私は多くの方の善意に支えられてプロゴルファー稼業を続けて来ました」

坂田信弘著「山あり、谷あり、ゴルフあり」より

長男雅樹を怒鳴り上げ、そして殴った後、私は玄関を飛び出した。私は海へ向かった。海岸は家族と一緒に暮らす雇用促進住宅から500メートルほど。

砂浜ではなく小岩の続く海。私はその堤防に座った。対岸は山口県の宇部。この海、この堤防、そこは私の悔いを語る場でした。

どうしてゴルフが下手なのか。
なぜあそこで30センチのパットを外したのか。

過去と現在しか見えちゃいない場所だった。

そして私は初めて競技ゴルフに参加した息子を殴っていた。

なんというバカか。プロでも80は叩く。中学1年の子が初陣の緊張感の真っ只中で、出だしのOB。2番、3番もダボの滑り出しで80叩くのは当たり前。

90叩いたって不思議じゃない。それを雅樹は80で回ってきた。

今だったら誉める。

しかしあの時は「80」という結果しか見えていなかった。

いつの間にか日は暮れ、夜になっていた。穏やかな潮騒の海だった。月明かりが海に斜めに走っていた。空の月は黄色だったが、海に伸びる月の明かりは銀色だった。

背中から、寛子の声が聞こえた。

「お父さん、お家に帰ろう。今夜のご飯はカレーライスだよ」

雅樹が言った。

「お父さんごめんなさい。僕、これからもっと一生懸命練習しますから、許して下さい」

教えて下さい、とは言わなかった。許して下さい、と言った。

私は何も言えなかった。

寛子が私の右に座った。雅樹は左に、女房が雅樹の隣に座る気配を感じた。

穏やかな潮騒だった。

寛子が私の右太ももを枕に横になった。そして言った。

「お父さん、堤防って暖かいねぇ。お家のお布団みたい」

そのとき、涙が落ちた。

声は上げなかったが、私は海を見つめたまま涙を流していた。そして、涙は止まらなかった。


私の父は和菓子職人でした。独立して、最盛期には店を3軒持った。経理部長の使い込みと、人様の保証人となってその人が倒れるとともに、倒産した。

私が中学3年の12月24日、一家6人、熊本を夜逃げした。

兵庫県尼崎の守部に逃げ込み、それから宝塚の山奥、西谷に逃げた。農家の倉庫に畳を敷き、そこを住処とした。

私と父、母の3人で山から街に下るバスに乗り、仕事場へと向かった。日雇い仕事。スコップー本持って働いた。

父は、私が19歳のときに鬼籍に入った。2度目の脳溢血だった。

父が言った。

「もしお前が成功したら、三分の一で生きろ。三分の一は国に戻し、三分の一は世間に戻し、お前は三分の一で生きて行け」

全部自分の物にしようとすると、その重たさで足元が埋まると言った。

「男は泣くな」と言った。

語り終えると、「熊本の水ば、飲みたかなあ」と言って昏睡状態に陥り、6時間後の朝6時40分、竹林の中のトタン屋根の家から逝った。

私は、父を西谷村の露天の焼き場で焼きました。まだ熱い骨を手で拾って骨壷に入れた。

葬式の後、周りの人は言った。

九州の男は業が強い。親が死んだのに涙ひとつ流さないのか、と。

私は父との約束と思って涙を流さなかった。

お父さん、と叫びたい気待ちを抑え込んだ、私の気待ちを知っていたのは母だけだった。

母は「信弘ごめんね、ごめんね」と言った。

その後、私と母と弟2人、妹の5人で山を下り、新たな生活に入った。

私は堤防で涙を流した。

父親との約束を破ったな、と思いながら涙を流し続けた。

私はそのとき初めて分った。それまでも頭じゃ分かっていたが、このとき初めて体で分かった。

私には家族がいる。そして多くの方の恩に支えられて生きてきた。

ゴルフ場のフロント嬢の笑顔ひとつ、メンバーの励ましひとつ、グリーンキーパーのメンテナンスひとつ、バンカーの砂粒ひとつ、樹木の支柱ひとつ、吹き抜ける風ひとつ、そのひとつひとつが私のプロゴルファー稼業を支えてくれていると。


時過ぎて、私はジュニア塾を開塾した。

私は塾生を、成績で殴ったことは一度もない。

挨拶が悪い、練習態度が悪い、そうした理由では殴り、怒鳴りつけて来たが、成績で叱ったことは一度もない。

誰もがいつかは咲く花だと思っています。

咲く場所がどこになるかは分かっちゃいないが、我が子も塾生も、いつかは必ず花咲くときが来ると思っている。

生まれ変われるのであれば、また女房と一緒になり、雅樹と寛子を授かりたい。

その時は、我が子を成績で殴りつけるようなバカな親にはならん。

それだけはやらん。命を賭けても守る。

あの時、小学生だった寛子も、大学2年を終えた春、1年間米国へ留学しました。

3月28日のこと。家族で福岡空港へ見送りに行った。寛子は窓際の席に座っていた。

私と女房と雅樹と、寛子の友達。合計13人での見送りだった。寛子は手を振り続けていた。

突然、友達の一人が叫んだ。

「寛子が、私の名前を書いている!」

次の子が叫んだ。次の子も叫び、その次の子も次の子も。途中からみんなで、寛子が飛行機の窓に向かって書くカタカナの文字を大声で叫んでいた。

友達の名を書き終えると、寛子は「オニイチヤン」と書いた。「オカアサン」と書いた。「オトウサン」と書いた。そして「アリガトウ」と書いた。

飛行機は飛び立った。

友達は皆、泣いていた。女房は金網を握り締めていた。体が激しく震えていた。

私の横に立つ雅樹は怒ったような顔で飛行機を見ていた。

雅樹が中学1年のとき、私が「男が泣くのか」と叫んだその言葉を雅樹は守り通していた。

私はプロゴルファーとして、背伸びしすぎていたと思う。

常にツマ先立ちの日々であったと思う。

そのツマ先立ちが家族に強いるモノは多かった。

男は声は出さずに、涙を流せる。それが自然な姿ではないだろう。

いつの日か、私は先に逝く。

その時、私は雅樹に言わなければならない。

男は涙を流していいのだ、と、私はその時を待っています。

日々、然り気なく過ごしております。


泣いちゃうなあ・・・・

ストロングも我が子に、特に第一子の長男坊には数多くの罪を犯してきた自覚があります。申し訳ないと思います。

だから、ストロングもいつか我が子に言わなければならないことがあります。

自分が逝く前にね・・・

ちなみに坂田信弘さんの息子さんの記事が出ていました。
 
2011年9月9日 スポニチ

坂田プロの長男・雅樹が国内ツアーデビュー

男子ゴルフツアートーシン・トーナメント第1日 (9月8日 三重県津市・トーシンレイクウッドゴルフクラブ=7010ヤード、パー72)

ジュニア育成の「坂田塾」を主宰するプロゴルファー・坂田信弘の長男・雅樹が国内ツアーデビューを果たした。

予選会からの出場で「こんな速いグリーンは初めて」とパットにてこずり2オーバー。現在はタイ在住で、同国のツアーに出場している33歳。プロ転向前は、坂田塾のコーチとして古閑美保や上田桃子を指導していた。今月は国内の2次予選会を控えており「弾みをつけたい」と92位からの予選突破を目指す。

頑張ってほしいですねえ。

【コミック】風の大地

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【コミック】「風の大地」は、家庭の事情から京都大学を中退し、
24歳という遅い年齢でプロゴルファーを志した主人公沖田圭介が、
恵まれた体格と熱心な練習、さまざまな人との出会いによって
成長し、メジャートーナメントなどで活躍する様を描いています。

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主人公の師となる小針春芳、トーナメントで優勝を争う尾崎将司
やグレッグ・ノーマンなど、実在のゴルファーも多数登場。

1993年度の小学館漫画賞青年一般部門を受賞。

【コミック】風の大地 全54巻  
原作:坂田信弘 画:かざま鋭二


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