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その12「どんなに辛くても私の前で笑顔を絶やさない子、本多弥麗」


坂田信弘著「山あり、谷あり、ゴルフあり」より 

北の大地が雪に覆われる季節となった。

この時季になると、一人の塾生を思い出す。札幌のジュニア塾生だった本多弥麗である。

小学4年で入塾し、いつもニコニコとしていて、ゴルフに一生懸命な子だった。

その弥麗が、6年のときに学校の体育の授業でヒザ周辺の小骨を折ってしまった。

手術したが、結局1年と8ヵ月、ゴルフができなかった。その間、弥麗は月1回の合同練習にやって来た。

真冬でも、1回も休むことなくやって来た。

札幌塾、冬場の練習の球数は150球までである。夏は好きなだけの球数を打たせて貰ってきた。

札幌の練習場、夏は痛みが出ていない球、新球を使う。そして冬は二夏、三夏と使った、旧球を使う。

夏の集球は簡単だが冬は大変だ。

雪、降らぬ夜、吹雪がない夜、ゴルフ練習場の職員の方が雪の中に埋まりし球を足の裏で掘り出しての集球となる。

冬の札幌塾、感謝の気持ちなしでは踏み込めぬ領域である。

そうして拾い集められた150球は、夏場の1000球に相当する値打ちがある。

冬場の合同練習も、そうした環境で行なわれて来た。しかし弥麗は球が打てない。それでも合同練習に来た。

ジャンパーを着込んで、仲間をジーと見ていた。私は言った。

「お前家に帰って勉強でもしていたらどうだ。ここにいても球が打てんのだし」
「いいえ、私、みんなの練習を見るの、楽しいですから」
「そうか、早く治したいな」
「はい。早く治してみんなと一緒に球を打ちたいんです」

弥麗はいつものようにニコニコしながら答えてくれた。イヤな顔ひとつしたことがない子だった。


当のご本人の本多弥麗オフィシャルブログ
2011年12月11日付のブログでは、
こんなふうに書かれていました。
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ゴルフをしようと思ったきっかけは
やはり坂田塾の募集でですね

母から募集をきいて
習い事感覚で面接にいったのが
きっかけだったんですけど

習い事みたいなあまいものじゃないし
坂田プロこわいし(笑)

まぁだから本気になれたんですけど

面接の帰り道、坂田プロが
怖くて泣いたのを覚えてます(笑)

10歳の私には衝撃的だったんでしょうね

坂田プロには本当に心から感謝してますけど
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弥麗も球を打つときが来た。

しかし1年8ヵ月の遅れは大きかった。

同級生がふたりいたが、その子たちはどんどん上手になり、弥麗はいくら練習してもふたりに勝てなかった。

中学校でも高校でも、弥麗は一度も北海道を勝ち抜いて全国大会に出場したことがなかった。

いつも先輩とか同級生とか後輩が全国大会へと向かって行った。

確か弥麗が中学3年の冬だったと思う。

弥麗の母親が私のもとにやって来た。

「もう十分です。辞めさせてください」

母親はじっと下を向いたままだった。

弥麗は母親と兄ふたりの四人暮らしだった。

私は、問うた。

「小学校のとき、球が打てない体でもニコニコ笑ってみんなの練習を見て、とことこ私のあとを付いてきた。そしてようやく打てるようになった。そりゃ1年8ヵ月の遅れは大きい。いくら練習しても追いつかない。」

「そういう状況であっても、弥麗は私の前ではニコニコ笑って球を打っていた。真剣に、しかも笑顔を絶やさずにだ。その子にどうしてゴルフを辞めよと言うのか」

と、聞いた。

母親は、「涙です」と言った。

「涙だ?」

「朝起きると、枕元のシーツがびっしょり濡れてました。ずっとそうでした。特に坂田塾長がいらっしゃった合同練習の翌日の朝、いつも濡れていました」

いつも一生懸命やっていた。でも成績が上がらない。

やはり辛かったのだと思う。

そして母親はこう言った。

「親として、娘の辛い姿を見るのにもう耐えられません」

私は言った。

「本多弥麗が涙の一粒も見せたり、もうダメですと言ってきたら、退塾させる。そうでなければ退塾させん。あんたはもう、口出しするな」

母親はそのとき号泣されておりました。

そして最後に「ありがとうございます。本当にありがとうございます」と言って帰って行かれた。

それからのち、私は弥麗をしごきました。

「この程度のことができんのか」と叫びながら、殴りもしました。

周りの者は、私を鬼と言ったよ。

でも私は、弥麗に強くなってもらいたかった。徹底的に基本だけを教えた。6番アイアンだけを教えた。

高校2年の冬、本多弥麗が札幌塾の来季のキャプテンになった。

やっぱり弥麗がいちばんヘタでしたから。

ジュニア塾ではいちばんヘタクソがキャプテンとなる。いちばん上手い者がキャプテンなら、すべてが滞りなく進む。

物事の伝達を考えても、強い者からなら、簡単に伝わります。しかしそれは指導者の都合。

私はそれじゃダメだと思った。

だからいちばんヘタクソをキャプテンとすることにした。

下手な者がキャプテンとなると、みんなにモノ言わなくちゃいけないから必死に練習する。

すると同級生らは「あいつがそこまで練習するのなら、俺らも協力しよう」という気になる。ここに横のつながりが
できる。

そして後輩たちは「先輩があそこまで練習しているんだから自分たちも」と、上を見て学ぶ機運が生まれる。

子供社会ではあるけれど、ここに横の糸と縦の糸ができ上がる。

だから私はいちばんのヘタをキャプテンにしてきました。
(省略)
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話はまだまだ続きますが・・・・

ニコニコ顔の子供だから、「きっと楽しんでいる」とは言えないのではないでしょうか。

「ウチの子は毎日楽しそうにやっています」とよく聞かされますが、本当なのか?

枕は濡れていないか?
一瞬寂しそうな顔を見せないか?

ここに出てくる本多弥麗選手のお母さんはそれをちゃんと見ていた、わかっていたということですよね。

そこがポイントなんだと思うんです。

毎日顔を合わせるのは親ですから。

これまでたくさんの2つの顔を持つ子供たちに会ってきました。

親が持つ認識とはまったく別の顔を持つ子供たちです。

その子供たちの抱える問題は解決してやれない。

でも、それに気づいてやるだけで、話をきいてやるだけで子供は涙を流した後に、また前向きに頑張る、頑張れる。

妙な不安を持つ必要はないけれど、ときに枕が濡れていないか?と心を配ってやったらいいですね。