坂田ジュニアゴルフ塾に学ぶ > その23「私は多くの方の善意に支えられてプロゴルファー稼業を続けて来ました」

その23「私は多くの方の善意に支えられてプロゴルファー稼業を続けて来ました」

坂田信弘著「山あり、谷あり、ゴルフあり」より

長男雅樹を怒鳴り上げ、そして殴った後、私は玄関を飛び出した。私は海へ向かった。海岸は家族と一緒に暮らす雇用促進住宅から500メートルほど。

砂浜ではなく小岩の続く海。私はその堤防に座った。対岸は山口県の宇部。この海、この堤防、そこは私の悔いを語る場でした。

どうしてゴルフが下手なのか。
なぜあそこで30センチのパットを外したのか。

過去と現在しか見えちゃいない場所だった。

そして私は初めて競技ゴルフに参加した息子を殴っていた。

なんというバカか。プロでも80は叩く。中学1年の子が初陣の緊張感の真っ只中で、出だしのOB。2番、3番もダボの滑り出しで80叩くのは当たり前。

90叩いたって不思議じゃない。それを雅樹は80で回ってきた。

今だったら誉める。

しかしあの時は「80」という結果しか見えていなかった。

いつの間にか日は暮れ、夜になっていた。穏やかな潮騒の海だった。月明かりが海に斜めに走っていた。空の月は黄色だったが、海に伸びる月の明かりは銀色だった。

背中から、寛子の声が聞こえた。

「お父さん、お家に帰ろう。今夜のご飯はカレーライスだよ」

雅樹が言った。

「お父さんごめんなさい。僕、これからもっと一生懸命練習しますから、許して下さい」

教えて下さい、とは言わなかった。許して下さい、と言った。

私は何も言えなかった。

寛子が私の右に座った。雅樹は左に、女房が雅樹の隣に座る気配を感じた。

穏やかな潮騒だった。

寛子が私の右太ももを枕に横になった。そして言った。

「お父さん、堤防って暖かいねぇ。お家のお布団みたい」

そのとき、涙が落ちた。

声は上げなかったが、私は海を見つめたまま涙を流していた。そして、涙は止まらなかった。


私の父は和菓子職人でした。独立して、最盛期には店を3軒持った。経理部長の使い込みと、人様の保証人となってその人が倒れるとともに、倒産した。

私が中学3年の12月24日、一家6人、熊本を夜逃げした。

兵庫県尼崎の守部に逃げ込み、それから宝塚の山奥、西谷に逃げた。農家の倉庫に畳を敷き、そこを住処とした。

私と父、母の3人で山から街に下るバスに乗り、仕事場へと向かった。日雇い仕事。スコップー本持って働いた。

父は、私が19歳のときに鬼籍に入った。2度目の脳溢血だった。

父が言った。

「もしお前が成功したら、三分の一で生きろ。三分の一は国に戻し、三分の一は世間に戻し、お前は三分の一で生きて行け」

全部自分の物にしようとすると、その重たさで足元が埋まると言った。

「男は泣くな」と言った。

語り終えると、「熊本の水ば、飲みたかなあ」と言って昏睡状態に陥り、6時間後の朝6時40分、竹林の中のトタン屋根の家から逝った。

私は、父を西谷村の露天の焼き場で焼きました。まだ熱い骨を手で拾って骨壷に入れた。

葬式の後、周りの人は言った。

九州の男は業が強い。親が死んだのに涙ひとつ流さないのか、と。

私は父との約束と思って涙を流さなかった。

お父さん、と叫びたい気待ちを抑え込んだ、私の気待ちを知っていたのは母だけだった。

母は「信弘ごめんね、ごめんね」と言った。

その後、私と母と弟2人、妹の5人で山を下り、新たな生活に入った。

私は堤防で涙を流した。

父親との約束を破ったな、と思いながら涙を流し続けた。

私はそのとき初めて分った。それまでも頭じゃ分かっていたが、このとき初めて体で分かった。

私には家族がいる。そして多くの方の恩に支えられて生きてきた。

ゴルフ場のフロント嬢の笑顔ひとつ、メンバーの励ましひとつ、グリーンキーパーのメンテナンスひとつ、バンカーの砂粒ひとつ、樹木の支柱ひとつ、吹き抜ける風ひとつ、そのひとつひとつが私のプロゴルファー稼業を支えてくれていると。


時過ぎて、私はジュニア塾を開塾した。

私は塾生を、成績で殴ったことは一度もない。

挨拶が悪い、練習態度が悪い、そうした理由では殴り、怒鳴りつけて来たが、成績で叱ったことは一度もない。

誰もがいつかは咲く花だと思っています。

咲く場所がどこになるかは分かっちゃいないが、我が子も塾生も、いつかは必ず花咲くときが来ると思っている。

生まれ変われるのであれば、また女房と一緒になり、雅樹と寛子を授かりたい。

その時は、我が子を成績で殴りつけるようなバカな親にはならん。

それだけはやらん。命を賭けても守る。

あの時、小学生だった寛子も、大学2年を終えた春、1年間米国へ留学しました。

3月28日のこと。家族で福岡空港へ見送りに行った。寛子は窓際の席に座っていた。

私と女房と雅樹と、寛子の友達。合計13人での見送りだった。寛子は手を振り続けていた。

突然、友達の一人が叫んだ。

「寛子が、私の名前を書いている!」

次の子が叫んだ。次の子も叫び、その次の子も次の子も。途中からみんなで、寛子が飛行機の窓に向かって書くカタカナの文字を大声で叫んでいた。

友達の名を書き終えると、寛子は「オニイチヤン」と書いた。「オカアサン」と書いた。「オトウサン」と書いた。そして「アリガトウ」と書いた。

飛行機は飛び立った。

友達は皆、泣いていた。女房は金網を握り締めていた。体が激しく震えていた。

私の横に立つ雅樹は怒ったような顔で飛行機を見ていた。

雅樹が中学1年のとき、私が「男が泣くのか」と叫んだその言葉を雅樹は守り通していた。

私はプロゴルファーとして、背伸びしすぎていたと思う。

常にツマ先立ちの日々であったと思う。

そのツマ先立ちが家族に強いるモノは多かった。

男は声は出さずに、涙を流せる。それが自然な姿ではないだろう。

いつの日か、私は先に逝く。

その時、私は雅樹に言わなければならない。

男は涙を流していいのだ、と、私はその時を待っています。

日々、然り気なく過ごしております。


泣いちゃうなあ・・・・

ストロングも我が子に、特に第一子の長男坊には数多くの罪を犯してきた自覚があります。申し訳ないと思います。

だから、ストロングもいつか我が子に言わなければならないことがあります。

自分が逝く前にね・・・

ちなみに坂田信弘さんの息子さんの記事が出ていました。
 
2011年9月9日 スポニチ

坂田プロの長男・雅樹が国内ツアーデビュー

男子ゴルフツアートーシン・トーナメント第1日 (9月8日 三重県津市・トーシンレイクウッドゴルフクラブ=7010ヤード、パー72)

ジュニア育成の「坂田塾」を主宰するプロゴルファー・坂田信弘の長男・雅樹が国内ツアーデビューを果たした。

予選会からの出場で「こんな速いグリーンは初めて」とパットにてこずり2オーバー。現在はタイ在住で、同国のツアーに出場している33歳。プロ転向前は、坂田塾のコーチとして古閑美保や上田桃子を指導していた。今月は国内の2次予選会を控えており「弾みをつけたい」と92位からの予選突破を目指す。

頑張ってほしいですねえ。