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岩手日報【日報論壇】【君が代を考える】

「英語のエキス」の著者佐香武彦さんが1999年3月26日の岩手日報【日報論壇】に投稿された内容です。

問題にされている「君が代」の歌詞を見てみる。

古今和歌集からとったことは紹介されているから広く知られているようだが、この首の初句は「我が君は」となっていて、それ室町時代になって現在の形になったのだそうだ。当時としては、極めて自然に、天皇の御代が栄えるようにと詠んだことが推察できる。それを今の時代の人がどのように感じ、どのようにとらえるかは違ってくるかもしれない。
 
だが、たとえ状況がピッタリ同じでなくても、日本国をよく表すものとして、つまり国歌として認められないものだろうか。なるほど現在のわが国は主権在民の下にある。だが、だからと言って別の曲をというのは私にはどうしても同意しかねる意見だ。
 
反対者は第二次世界大戦と結びつけて、「君が代」イコール「軍国主義」とも言っているような気がする。ところが、その論法通りに考えてみると、皮肉なことに、どこの国であれ、戦争をするたびに「新しい国歌」を作り出さねばならなかった理屈になる。そうではないはずだ。
 
長い間には、不幸にして愚かな戦いが起きるかもしれない。一度それに突入すれば、国民は祖国の国歌・国旗に少なからず鼓舞される。しかし、その戦いがどんなに愚かで忌まわしくても、戦いの愚かさと国家・国旗とは関係のないことだ。このことが最も大切な点だ。
 
あのアメリカ国歌「星条旗よ永遠なれ」の歌詞には、「ロケット」とか「爆弾」と言う言葉が出てくる。それもそのはず、詩の原題は「マクヘンリー砦(とりで)の防衛」で、一九三一年に国歌に制定されたものだからだ。従って、過激な感さえするこの曲を見る限り、取りようによっては国歌とは言いがたいようにも思えてくる。しかし、その曲をどのように受け止めるか、これも個人差のあることで千差万別かもしれない。
 
そうしてみると、どこの国の国歌であれ、万人から異論が出ないようなものはなさそうだと思えてくる。特に「満場一致」を好む日本人の中からは、どんなものであれ、異論を唱える人が出てきそうだ。
 
先年、日本に来たアメリカ人は「私達の国歌の歌詞は好きになれませんが、曲は大好きです」と言い、誇らしげに歌っていた。折に触れて、あの曲が歌われたり、演奏されたりするのだが、それと比べてみると「君が代」はずっと平和的だ。私はこの曲に関して、他人から嫌なものを押し付けられたり、強制されたという感覚は全くない。「細石(さざれいし)の巌(いわお)となりて、苔(こけ)のむすまで」・・・弥栄(いやさか)を願う良いうたではないか。
 
この曲を平和的でないと感ずる人がいるのであれば仕方ないが、私がこの曲を誇りに思い、自信を持って歌うことは、第二次世界大戦のような愚かな戦いを繰り返さないようにと願うことでもある。

主権税民の世に生きることと、「君が代」を歌うこととは何ら矛盾しない。

日本人である私にとって、そして軍国主義を憎む私にとって、「君が代」は最も平和的なものの一つだ。