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佐香武彦さんからの手紙 その1

2011年5月9日です。こんにちは、ストロング宮迫です。

GW期間中にNHKで「被災地再起への記録」が放送されていました。

NHK「被災地再起への記録」

岩手県宮古市在住の「英語のエキス」の佐香さんのお手紙からも再起への動きが感じられます。

この写真は皆さんもこの2ヶ月の間テレビでよくご覧になったと思いますが、
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佐香さんのお手紙によると、

この大橋のすぐ向こうに側に我が家があります。我が家の前には堤防があるのですが、その堤防の前を「流されてきた漁船」と「壊された三陸鉄道の鉄橋」が塞ぎ、宮古市南町のその地点では津波の流れと勢いが変わったのではないかともっぱら言われています。

ということでした。

「流されてきた漁船」と「壊された三陸鉄道の鉄橋」によって津波の流れが変わった・・・

こうした「ちょっとした」ことだけど、決定的な出来事がいくつも積み重なって人はこの世にいるのだなあと改めて感じます。


これはあくまで想像ですが、再起にあたっては、こうした「ちょっとしたこと」も含めて、東日本大震災とは「なんであったのか?」を考えざるをえないのではないのかと思います。

それは受験が終われば、

「自分たちにとっての受験がなんだったのか?」

を多くの方が考えるように。

次に進むにあたって、目の前で起こってきたことは「なんだったのか?」をその人なりの解釈や結論で締めることで本当の再起が始まるのかもしれませんね。

受験でうまくいく、それをたとえば「合格」と捉えると、合格した人は「この受験がなんであったのか?」を考えはするけど、非常に浅い所でしか考えなかったりする。

考えが浅ければ、時間の経過とともに本来の目的を忘れ、都合のよい解釈が当たり前になる。

「たまたま」うまくいったりしたことも全部「自分たちの努力のお陰」と「自分たちの力」と勘違いしたり。

「失敗は成功の母」なんて言います。

しかし、逆に「成功は失敗の母」とも言えるのではないでしょうか?

受験が終われば「この受験はなんであったか?」を徹底的に考える必要がある。

今受験期の人だって常に「この受験はなんなのか?」を勉強を見る作業以外に考えていかなくてはならない。

以下はいずれも佐香さんがお手紙の中にコピーして入れて下さっていた岩手日報の東日本大震災に関する記事の紹介ですが、皆さんの日々の生活を考えるヒントになるのではないでしょうか。

岩手日報「住民主役の知恵忘れ巨大防潮堤の矛盾

・・・田老地区は1896(明治29)年と1933(昭和8)年の大津波で甚大な被害を受け、翌34(昭和9)年、防潮堤建設に着手した。

高さは明治三陸津波の15メートルより低い10メートルで、それだけでは街を守れない。だが防潮堤を湾口に対し直角に造ることで津波を沢沿いに受け流し、避難する時間を稼ぐことを目指した。

内側の市街地は碁盤目状とし、縦方向の道路は全て山に向かって造った。交差点の角を切って見通しをよくし、たとえ真っ暗闇でも迷わず高台へたどり着けるようにした。当時、防災の主役はあくまで住民だった。

だが、時の流れがその知恵を忘れさせた。

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【写真=津波で倒壊した新防潮堤(右)と、原形を保った旧防潮堤(左)。防災の主役は防潮堤ではなく、あくまで住民であることを物語る=宮古市田老町】

  
60(昭和35)年のチリ地震津波後に建設した新防潮堤は、高さは同じ10メートルだが、津波に真っ正面から立ち向かうように、湾口に対し並行に造られた。二重防潮堤が「二の字型」ではなく「X型」となった理由は、設計思想が全く異なるためだ。

さらに、旧防潮堤と新防潮堤の間には広い土地が生まれ、次第に浜小屋が建ち始めた。平穏な日々が何年か過ぎると家が1軒、2軒と増え、あとは加速度的に市街地が広がった。

無秩序に延びた道は山に向かず、変形した交差点を何度も曲がらなければ高台にたどり着けない。防潮堤が主役となった新たな街が形成されてしまった。

今回の大津波は新旧両方の防潮堤を大きく越えたが、津波に立ち向かおうとした新防潮堤が一瞬で倒壊したのに対し、津波を受け流した旧防潮堤は最後まで原形をとどめ、住民が避難する貴重な時間を稼いだ。

宮古市田老町の防潮堤とは 
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高さ10メートルの三つの防潮堤を中央部で接続し、X型としている。
 
防潮堤①は昭和三陸津波を受けて1934~57年度に建設し、長さは1350メートル、工事費は1872万円。 
防潮堤②はチリ地震津波を受けて62~65年度に建設し、長さ582メートル、工事費6078万円。今回の津波ではこの部分が倒壊した。 
防潮堤③は73~78年度に建設し、長さ501メートル、工事費3億8170万円。防潮堤①、②は補強工事も行われていた。
 



家庭の中で違う「設計思想」が乱立すれば、そもそもの目的があっという間に失われてしまう。

人は「忘れやすい」生き物ですから。

岩手日報「防波堤の効果過信し危機意識低下

3月11日、大船渡市大船渡町野々田の・・・民生委員と役員で地域の家々を回り、逃げるよう声を掛けた。

しかし、地域の高齢者は笑って相手にしなかった。

「チリでも家まで来なかった。ここまで来たら大船渡は全滅だから大丈夫」

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【写真=津波対策で設置されていた大船渡港の湾口防波堤(上)=2007年。津波の直撃を受けて根元だけ残し、水面から姿を消した(下)=5月1日】
 
大船渡港の湾口防波堤とは 1960年のチリ地震津波で国内最悪の被災地となった大船渡港で、津波対策を目的に63年着工。国直轄事業で19億円を投じ、4年後に完成した。

チリ地震津波想定の構造で、全長736メートル、最大水深38メートル。完成から40年以上経過して老朽化が進み、地元は大規模改修を要請。昨年大船渡港が国の「重点港湾」に選定され、改修が始まる見通しとなっていた。一方、大船渡湾内の水質悪化の一因とも指摘されてきた。

  
・・・首藤名誉教授は「構造物によって実際の体験が減ったため、逆に『もう大丈夫』と思い込んだのだろう。自然と付き合う知恵がなくなり、人間の意識が都市化してしまったのかもしれない」とハード整備に頼る津波対策の限界を指摘する。

・・・どんな津波対策の構造物でも救えなかった命がたくさんあったのは事実だ。

「防波堤はある程度津波を止めてくれたと思うが、やっぱり逃げることが基本と多くの人が分かったはずだ。もっと避難誘導に反応してくれていれば...。本当に、悔しい」。


ストロングもその場にいれば、きっと言っていたことでしょう。

「大丈夫!大丈夫!」と・・・

一方で、かつての経験から得た教訓をいつまでも忘れてはならないと思い、伝え続けようとした方々も多くいらっしゃる。

岩手日報「ここより下に家を建てるな宮古、集落守った石碑

「此処(ここ)より下に家を建てるな」。

明治、昭和の三陸大津波によって2度の壊滅的な被害を受けた宮古市重茂の姉吉地区に教訓を伝える石碑がある。
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【写真=「此処より下に家を建てるな」と先人の津波被害の教訓を伝える石碑=宮古市重茂】


・・・姉吉地区は津波によって、これまで全滅に近い被害を受けてきた。住家が漁港周辺にあった1896(明治29)年には数十人が犠牲となり、生存者は2人。1933年は生存者4人だった。以来、住宅が石碑より海側に建ったことはない。

・・・自治会長の木村民茂さん(64)は「集落が2度も全滅したことが、みんなの心にある」と危機意識の高さを証言する。津波は先人の教え通り、石碑より海側でとどまった。


宮古市・姉吉地区は今回、明治三陸の津波遡上の最大値を上回る38.9メートルを記録したそうです。

どの世界でもたぶん教訓を記した「石碑」はあるでしょう。

あとはそれを守るかどうか。

岩手日報「普代守った巨大水門被害を最小限に

「2度あることは3度あってはならない」。

1947年から10期40年間村長を務めた和村幸得さん(故人)には1896(明治29)年、1933(昭和8)年の三陸大津波で多数の犠牲者を出した経験を繰り返すまいという強い信念があった。

明治の大津波級の津波から村を守るため、当時一般的だった高さ10メートル前後ではなく、東北一とも言われる15メートル級の高さにこだわった。「そんなに高い堤防が必要なのか」という批判的な声も一部あったというが、和村村長らの切実な訴えが実り、普代水門は県営事業として12年間、総工費35億6千万円をかけ84年に完成した。
 

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【写真=大津波が村中心部へ流れるのを防いだ高さ15・5メートルの普代水門=普代村】
 
  
・・・村によると、今回の津波は高さ約20メートル。水門を越えたが、そこから上流約300メートルで止まり、付近にある普代小、普代中のほか村中心部も被害を免れた。

・・・和村村長は退任時のあいさつで村職員にこう呼び掛けたという。

「村民のため確信を持って始めた仕事は、反対があっても説得してやり遂げてください。最後には理解してもらえる」


家庭での親子の話し合いにも通ずるエピソードですねえ。

あとは「確信」があるかどうか。

「確信」がないから多くの親は「説得」の作業を「子供の自主性」を重んじるフリをして放棄しているのが現状ではないでし
ょうか。

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。