英語のエキス > 「英語のエキス」の佐香武彦さんの無事の確認が取れました

「英語のエキス」の佐香武彦さんの無事の確認が取れました

2011年3月23日です。こんにちは、ストロング宮迫です。

まず「英語のエキス」の佐香武彦さんの無事の確認が取れましたことをご報告いたします。

確認はまだ直接連絡が取れておりませんが、昨日3月22日の夕方、佐香さんからお手紙が届くという形での確認です。

いろいろとご心配いただき、また、たくさんの情報をメールでいただきました。

この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

今回の大震災で「英語のエキス」の佐香さんと連絡が取れないとここに書いて10日。

たくさんの方が佐香さんの情報をネット等で探してくださってメールを下さいました。

特に3月20日の午後以降からはメールが集中しまして、

一番最初、3月20日15時37分にかな子さんから

3/13付のメルマガに佐香さんの安否をご心配されている様子が書いてありましたが、ご無事のようですね。

先程、安否確認の検索をして、お名前を見つけました。

岩手県の避難者名簿では見つけられないのは、ご自宅にいらっしゃる方の分は掲載されてないからですね(私の従妹家族もそうでした)。

安否確認の情報が確かなのであれば、ご自宅で過ごされていてご家族も無事とのこと、ほっとしました。まだまだ寒い日が続いていて、必要なものも足りてない状況なので、これからもしばらくは大変な日々が続くと思いますが。(省略)

といただいて、すぐに

16時4分には、ちあきさんからは

NHKの安否情報の検索サービスで佐香武彦さんのお名前がありました。

ストロングさん、佐香さんとご連絡取れましたでしょうか。

情報通りご無事であることをお祈りいたします。

連絡がとれましたらぜひ情報のアップお願いいたします。

といただきました。

「佐香武彦」Person Finder (消息情報): 2011 日本地震

ひたすら各避難所の名簿を確認していたストロングでしたが、「ご自宅にいらっしゃる方の分は掲載されてない」と教えられました。

しかし、ストロングはアホなんでしょうね、

「本当に間違いないのか?」

という思いは募りました。

3月21日以降は、佐香さんが自宅にいらっしゃるという前提で、カセットコンロや衛生用品、食糧、味噌に醤油に塩などを思い付くまま準備し、直接持って行こうと思いました。

新聞報道などによれば、盛岡から佐香さんのいらっしゃる宮古市まで臨時のバスが1日に数便出ているとありましたので、伊丹から飛行機で盛岡に飛び、そこから宮古までバスなら、たどり着けるのではなかろうかと。

そこへ佐香さんから3月22日の夕方、お手紙が届いたのでした。

手紙は3月18日付となっておりました。少し長いですが、紹介させていただきます。


ご承知のように、今回突然の大地震と大津波に襲われました。

誰か、大事な人に伝えておこうと、忘れられないこの日の模
様を書き留めておきましたので、どうしようかと思い悩みま
したが、勝手ながらご報告申し上げます。

NTTの人に聞いたところ、電話線が回復するのもインターネッ
トが使えるようになるのも、いつのことになるか分からない
ということでした。

宮古郵便局の人に聞いたのですが、電気がこないので日常の
業務が何も出来なく、元に戻るのはいつになるか分かりませ
んと言われました。

東北新幹線は橋脚がダメージを受けて鉄筋もむき出しになっ
ているようですし鉄道はいつ元通りなるか分かりません。
クロネコヤマトも受付はしておりません。


今回の大地震と大津波(東日本大震災)のこと

所用を終えて自宅に帰って間もなくのこと、テレビの"緊急
地震警報"を聞きました。

数秒後に立っていられないほどの激震に見舞われ、家内の悲
鳴を聞き、外に出る間もなく、机の下にもぐりこみました。

揺れが収まったのを見て家の外に飛び出して間もなくのこと、
今度は「津波が来たあ!逃げろ!早く逃げろ!」というただ
ならぬ叫び声を聞いて、そのまま近くの宮古高校へ走りました。

歩いて2~3分のところの建物なのに何と遠く感じたことか・・・

4階建ての建物の屋上から「早く!急げ!後ろから波が来た!
早く来い!」と大声で叫ぶ声・・・

やっと辿りついて階段を上りながら、押し寄せてくる真っ黒
い波を見ました。

そしてその後も津波の襲来が繰り返されました。数時間、大
きな余震に怯えながら避難所で皆が肩を寄せ合いました。
(あとで知りましたが、最初の巨大地震の発生から8分後に
は1回目の"津波"が押し寄せたと言うことでした)

警報は夜になっても解除されることは無く、着の身着のまま
で逃げましたから、寒さに苦しむ夜を過ごすことになりました。
避難所では食料も無く、空腹と寒さに耐えました。

宮古市役所も災害にあったらしいと聞いて、「そんな悲惨な
状況では何も期待できない」と避難者も覚悟を決めたと思い
ます。

その夜遅く、町内会の人がパンを配ったものの、全員に行き
渡った様子はありませんでした。別の避難所では配られたお
にぎり1個を2~3人で分け合ったそうです。

翌朝、宮古市南町一帯は無事だったことを知り、避難所に避
難していた人は帰宅しました。

我が家に向かう途中長男にバッタリ会い無事を知りました。
息子は中学校の教師をしておりますので、地震直後は生徒た
ちを守ることで必死だったようです。

その翌日には二男の友人が訪ねて来てくれて、私たちは無事
であることを確認してくれました。有り難かったです。

不幸中の幸いですが、南北の堤防に守られていて我が家は信
じられないほど無傷でした。

運が良かったとしか言いようのない「コト」に驚きながらも、
いざ何かをしようとしたら、ライフラインがズタズタになっ
てしまって、何処とも(市内でさえも)連絡が取れないこと
を知り、益々深刻さを知りました。

消防署内に設置された非常災害公衆電話を使っても、市内に
は連絡が取れないことを知らされたのです。

電話が通じなくなったことは考えられても、まさか「ケイタ
イ」までも、しかも宮古市内でも使えなくなるとは・・・

21世紀の世に、完全な音信不通の状態の下に置かれるとは、
誰も考えなかったことでしょう。

私の肉親は助かったものの、家内の兄と娘は波にさらわれて
しまったようです。でも、そんな悲しい事実を知っても、
「私たちはまだ良いほうだ」と思いました。

全てを失ってしまった知人もいましたし、最愛の肉親を失っ
てしまった人も多かったです。どの話も、可哀そうで仕方が
無いことばかりでした。

万里の長城を思わせるような防波堤や防潮堤も"強大な津波"
の前にあえなく砕け散り、宮古市の田老地区は全滅、山田地
区は火災も手伝って全滅・・・近隣の市町村も壊滅状態であ
ることを知りました。

翌朝早く、破壊された町の状態を見て歩いて、ただ絶句しま
した。海岸沿いは全滅であるとは聞いていましたが、繁華街
でも自動車が重なり合っていましたし、信じられないことに、
町中に大きな漁船や多数の漁具が打ち上げられていました。

鉄橋・・・いえ鉄道そのものがズタズタにされ、津波の怖さ
・恐ろしさを知りました。

役所・役場や自治体の長さえも奪って、全ての機能をすっか
り麻痺させてしまった津波・・・

死体が転がっているという子供には見せられない悲惨な光景
があったようですが、津波の恐ろしさだけは言って聞かせな
ければならないと思っています。

或る消防団員は、急いで水門を閉めに行って、閉めた直後に
消防車もろとも津波にさらわれたと言うことでした。何とも
いたたまれない悲しい話です。

テレビなどで放送されるのは、取材が可能であるが故のこと
であると知りました。

リポーターも足を踏み入れられない場所が多数あるのでしょ
うし、報道されないところは何事も無かったのではなく、そ
ここそが救援物資も届かない陸の孤島なのでしょう。今後、
徐々に色々なところの様子が明らかになっていくものと思わ
れます。

私は、物資面では何も不足していません。コメや野菜は農家
から分けて貰っていますし、使い捨てカイロ他の品物も入手
しています。

長い列を作って並ぶことは通常なら少しは苦痛なのですが、
今回は、そここそが情報源ですので、見ず知らずの人同士で
近隣町村のことや郡部の被害状況を教え合い、知らせ合い、
支え合っています。

何も無い人たちのことを思うと、並べるだけ良いほうだと思
わされます。残された者が「今後の歩むべき道」を教えられ
ているような「買出しの列」です。

年月が経てば笑い話になるようなことなのですが、このとこ
ろ「湯たんぽ」を愛用しています。ソックスも3枚重ねて履
いています。以前2枚までは重ねたことがありますが、流石
に3枚は初めてでした。マフラーを巻き、ジャンパーを重ね
着して丸まる太った姿でいます。電力を節約し、灯油を節約
し、エネルギーを少しずつしか使いませんから、省エネ精神
が染み付くことになるでしょう。

昨夜は6時過ぎには床に入りましたが、帰る家が無い人の事
を思うと、私のように自宅で、しかも布団で寝られるだけ良
いほうだと思います。

不足しているものと言えば「灯油」が挙げられますが、それ
とて、全く不自由しているわけではありませんので、オンの
字だと思っています。

以前「オール電化」を強く勧められていたのですが、臍曲が
りの私は「電気が来なくなったら何も出来ないではないか」
と逆らっていました。それが現実になろうとは・・・。

相変わらずガスボンベも併用していますので、それを利用し
て煮炊きしています。宮古市内でも未だに電気や水道が回復
していないところがあります。

風光明媚なリアス式海岸が、それ故に"津波"の餌食になろ
うとは・・・。

悔しくても、「リアス式海岸であるが故に、いつかは計り知
れない自然の猛威に襲われる」と覚悟をしておいたほうが良
さそうです。

今回は、明治の大津波や昭和の大津波を上回る1000年に
1度の大津波に遭遇したのですから・・・。

どんなに立派で頑丈な防波堤を作っても、それは自然の威力
には通用しないようです。

或る人が「復興・復旧には10年は掛かるかもしれない」と
言っていましたが、それくらいで済むのかどうか・・・
「美しい三陸海岸」を取り戻せるのはいつのことなのか。

昨日は、(私が行っている)看護学校の生徒たちが介護施設
を回って、寂しさと不安とにさいなまれているお年寄りたち
の話し相手になってケアしていたようで、その様子が放送さ
れていました。

嬉しくて仕方がありませんでした。今後は、彼ら若者たちの
ために(次の時代を背負って立つ人たちですので)尚一層、
私のできることをして行こうと思います。

今朝は、テレビ岩手で嬉しいニュースが放映されていました。

やっとのことで田老町まで国道が開通したのですが、自動車
は国道から横へは行けません。

ところが大勢の中学生たちが救援物資を背負い籠に入れて運
んだり、両方の腕で抱えて配って回っているとか・・・

避難所で待ちわびている被災者たちはどんなに嬉しかったこ
とでしょう。

皆が一丸となって、力強く復興に歩み始めているようです。

今は、世界中が驚くような復興が遂げられそうな気がしてい
ます。

勝手ながら、このところの様子を書かせていただきました。

佐香武彦


佐香さん夫妻の無事はなによりでした。ご心配いただいた読者の皆さん、情報提供をいただいた皆さんに重ねて御礼を申し上げます。

まだまだ大変な状況ですが、佐香さんのお手紙にありましたように「子供たちや若者たち」がこの困難な状況の中、真っ先に率先して地域の復興に手を上げている様子は心強くもあります。