小6(受験生)の勉強悩み相談Q&A

こんにちは、ストロング宮迫です。

とうとう12月、受験生もようやく尻に火がつく頃ではないでしょうか。

もっと早く火が付いていれば・・・

親はそう思いますが、それが現実。

しかも、

「入試までに絶対追い込んでやる!!!!!!!!」

と思ったのもつかの間、ダラダラしたり、今日もあれば明日もあるような振る舞いをする。

あの気持ちはいったいどこへ!?

最後まで面倒掛けやがる子供たちです。皆そうですよ。

入試の試験会場で周りから聞こえる「コツコツコツ」という正確に刻まれる鉛筆の音を聞いたときに感じる恐怖と緊張。

そのとき初めて入試前日までに自分がしてきたことに気づくのかもしれません。

自分がやってきたこと、積み上げたことだけが試される。誰も助けてくれない。

「入試までに絶対追い込んでやる!!!!!!!!」

この気持ちをようやく持った子供たちを入試まで伴走してやって下さい。

最後まで諦めない者、執念深い者こそが勝ち上がるのが受験。志望校の判定が悪い順番から脱落するのではなく、諦めたものから順番に脱落するのが受験。

成績が悪い子供のほうが諦めも早くなるのは致し方ないとしても、何年もかけてきた受験を残り2ヶ月、3ヶ月で諦めるのは敵前逃亡です。

最後まで歯を食いしばって、「やるべきことをやる」!!

1日1点で12月1ヶ月で30点アップできる。

今成績が振るわない子供こそ、そのチャンスはあるのですから。

さて、毎年12月にお届けしているお話です。

芸もなく何度も紹介している浅田次郎さんのお話ですが、何度だって読んでほしい。もう読んだことがある人も再読、再々読、再々々読くださいませ。

浅田次郎著「ひとは情熱がなければ生きていけない」より

東京オリンピックの前年のことである。

私はどうしても私立中学を受験すると言い張って、貧しい母を困らせた。

生家は数年前に没落し、家族は離散していた。しばらく遠縁の家に預けられていた兄と私を、母はようやく引き取って、とにもかくにも、六畳一間に三人の暮らしが始まったばかりであった。母は、ナイト・クラブのホステスをしていた。

学歴に対する過剰な信仰が始まったのは後年のことで、当時の私立中学は教育熱心な裕福な家庭の専用物であった。そして、悲しいことに、余裕のある家庭の子女は明らかに学力が優っていた。

私が私立中学にこだわったのは、親の不始末によって私の人生まで変えられたのではたまらぬ、と考えたからである。家庭が破れたのちも、私は選良としての意識をかたくなに抱き続けていた。繁栄に向けて日本中がせり上がってゆく槌音(つちおと)が、昼夜分かたず私を苛んでいた。

「いい家の子と一緒にやってゆくのは、おかあさんも大変だけど、おまえだって並大抵のことじゃない」

と母が説諭したが、結局私のわがままを聞いてくれた。

さながら科挙の試験のごとく、一族郎党と家庭教師が花見のような弁当持ちで少年に付き添う試験場に、私はひとりで臨んだ。誤答はひとつもないという自信はあったのに、たぶん不合格だろうと思っ
た。

理不尽だと思いつつも、すべてを斉(ととの)えて試験に臨む本物の選良たちにはかなわない気がした。アパートに戻ってその気持ちをありのままに伝えると、母は化粧をする手を止めてやおら鏡から向き直り、強い口調で私を叱った。

「おとうさんやおかあさんが試験を受けたわけじゃないんだ。おまえが誰にも負けるはずがないだろう」

と言ってくれた。

合格発表の日、母は夜の支度のまま私と学校に行ってくれた。盛装の母は場ちがいな花のように美しかった。私の受験番号を見上げたまま、母は百合の花のように佇(たたず)んで、いつまでも泣いていた。

その日のうちに制服の採寸をした。駒場東邦中学の紺色の制服を母はたいそう気にいって、「海軍兵学校みたいだ」とはしゃいだ。

それから別室で販売されていた学用品を、山のように買ってくれた。

小さな辞書には見向きもせず、広辞苑と研究社の英和辞典と、大修館の中漢和を買い揃えてくれた。おかげで私はその後、吊り鞄のなかに三冊の大辞典を詰めたボストンバックを提げて通学しなければならなかった。

学徒動員のさなか、学問をするかわりに飛行機を作っていた母は、私に何ひとつ教えることができなかった。三冊の辞書の言うに尽くせぬ思いがこめられていたのだろう。

・・・・・・・・・・・

紅葉の色づくころ、母が死んだ。

癌を宣告されてからも決して子供らの世話になろうとせず、都営団地にひとり暮らしを続けた末、消えてなくなるように死んでしまった。

七十三の享年に至るまで、たおやかな一輪の百合の花のように美しい母であった。

遺された書棚には私のすべての著作に並んで、小さな国語辞典と、ルーペが置かれていた。

あの日から、三冊の辞書を足場にしてひとり歩きを始めた私のあとを、母は小さな辞書とルーペを持って、そっとついてきてくれていた。

そんなことは、少しも知らなかった。

いかがですか?

別の書籍から関連するものを少し紹介しましょう。

浅田次郎著「新選組読本」より

受験会場にも、当然、ひとりで行きました。

ところが、他の受験生には大名行列のように大人が付き添っているんです。両親、担任の先生、塾の先生、そして家庭教師・・・。

それを見て、僕はびびりました。なんて言うかな。オリンピックの開会式に出たら、みんながナイキとかアシックスのシューズを履いているのに、自分だけ草履を履いていたような、そんな感じ。

昼食の時間も、僕は途中で買ってきたメロンパンを齧りながら、テトラ牛乳を啜っているけど、周囲は花見弁当のようなお重を広げていました。父兄のひとりが僕に同情して、お重のふたに卵焼きとか海苔巻きをいっぱい載っけて、「これ、召し上がれ」と差し出したけれども、僕は手をつけませんでした。施しを受けることはできません。

試験はできました。誤答はひとつもないという自信もありました。

でも、会場のムードに圧倒されてしまって、「不合格になる」と思ったんです。

家に帰ると、店に出る支度をしていた母親が、鏡を見ながら「試験どうだった?」と聞くから、「もうダメだ」と答えました。

このあと母親の言葉

「おとうさんやおかあさんが試験を受けたわけじゃないんだ。おまえが誰にも負けるはずがないだろう」

になるわけですね。

その言葉は、のちのちになっても僕の支えですね。

どんなブランドがついていようと、どんなコンプレックスを抱えていようと、関係ない。

試験なら成績、原稿なら内容、評価されるのは自分だけ。

何も教えてくれない母でしたが、ポイントを押さえるのは上手でしたね。

合格発表のときに母親が買ってくれた

その三冊の辞書は今でも机の脇に置いてあります。もうボロボロだけど、手放せない。

十二歳のときから大きな辞書を引き続けたことは、僕の人生に大きな影響を与えたと思います。

辞書というのは、大小にかかわらず引く手間は同じなんです。

大きな辞書を持っていると、ひとつの言葉を調べるとき、ついでに前後の言葉も見るでしょう。それでずいぶん勉強させてもらいました。

だから、僕が小説家になる種は、母が蒔いてくれたようなものですね。

本人は意識していなかったし、僕が小説を書くことには猛反対だったけれども。

そんな浅田少年も15歳のときには「生か死の選択を迫られるほどの熾烈な悩み」を抱え、「鬱」と格闘していたそうです。

「勇気凛凛ルリの色 四十肩と恋愛」より

冬の夜の家出は、生の選択であった。

あの晩、私は着のみ着のままで死から脱出した。ボストンバックの中には、貯金通帳と辞書だけが入っていた。

なぜ辞書であったのかはわからないが、ともかく広辞苑と漢和辞典と、研究社の英和辞典を持った。

教科書も着替えも持たずに辞書類だけを詰めこんだというのは今さら説明はつけようもないが、たぶんそれらが私のアイデンティティーであったのだろうと思う。

あえて具体的な理由をつけるとするなら、それらは別れた母が買い揃えてくれたものであった。

中学に合格したとき、おまえには塾にも行かせず家庭教師もつけなかったのだからこれぐらいはしてやるよと、乏しい財布をはたいて買ってくれたのだった。

ホステスをしながら私を育ててくれた母は、結局経済的な事由で私を手放したのだが、そのとたんにこんなことになってしまったという呵責の念が、家出に際してパンツよりも辞書をえらばせたのであろうか。

何も教えてくれない母から教わった唯一のことが子供の人生の支えになっている。

多くのことを教えればいんじゃない!ということですね。

頑張れ、受験生!!