こんにちは、ストロング宮迫です。

各地では中学入試がスタートしています。関西でもいよいよメインイベントが迫ってきました。

まもなく高校入試も私立がスタートします。相変わらず、感染状況に一喜一憂させられる不安な状況におかれていますが、どうか本番では、存分に実力を発揮できますように。

応援しています!!

以前、ここで書いた「プレイは人格を越えない」と言ったバスケットボールの指導者・ジョン・ウッデンはセルバンテスが言ったという

「旅路は目的地よりもよい」

が好きだと語っています。

TED:John Wooden「勝利と成功の違い」

私は「勝利」を口にしたことはない。勝利は口にするな。

相手より多く点を取っても試合に負けることはあるし、点が低い時にでも勝つことはある。

私は選手たちに試合後、顔を上げていてほしかった。

いつもこう言っていた。「試合が終わって結果を知らない人に会っても選手たちの顔色から結果を知られないように。どちらが多く点を取っていようが関係ない。

私は「勝利のための祈り」というものを信じない。出来る限りを尽くす。誰もそれ以上できないのだから。

「人よりうまくなろうとしてはいけない。常に最高の自分になるための努力をしなさい」とも。

受験生も心しておいてもらいたい。

そして、学生に対して「プレイは人格を越えない」がゆえに「教育を受けることがまずは第一。バスケは二の次にして生きる力をつける。社会活動にも多少の時間をさく」と語り、優先順位を間違えるなと諭した。

ここにも、まだ全国大会を戦っている連中がいます。

全国高校サッカー選手権の決勝戦がまもなくある!

2016年1月にあった第94回全国高校サッカー決勝で敗れ、惜しくも準優勝となった國學院久我山サッカー部の記事はお子さんのことを考えるのにヒントになるでしょう。

「制約があるからアイディアと工夫が生まれる」
サッカージャーナリスト 小澤一郎

・・・國學院久我山の練習環境は「並の高校サッカー部以下」と言っても大袈裟ではないほどに恵まれていない。

野球部と半面を分け合う人工芝のグラウンドはサッカーのフルコートが取れない狭さで、今年度初の200人超えとなった大所帯のサッカー部(208人)が一斉に練習を始めた時には「すし詰め状態」という表現がぴったりなほどに一寸の余地もなくなる。

当然、授業後の平日のトレーニングにおいては紅白戦、戦術練習はおろか、5対5のようなポゼッション練習もできない。

また、男女別学で最寄り駅から学校までの登校ルートも男女で分けられているように國學院久我山の校則はとにかく厳しい。

高校は18時10分完全下校が徹底されており、そこに「サッカー部は全国レベルだから」「大事な公式戦前だから」という例外は通用しない。

偏差値70を超える進学校らしく勉強時間を確保する狙いもあっての規則だが、サッカー部は朝練も自主練のための時間もなし。長年、平日2時間程度の練習時間でテクニックと判断力を高め、ボールを大切に扱うサッカーを落とし込んでいる。

・・・こうした学校側からの様々な制約について李済華(リ・ジェファ)総監督は次のように話す。

「制約があるからアイディアと工夫が生まれるんです。制約があることで創造性も出てくる。逆に、制約のないところで創造性は出てこないと思いますよ」

・・・李総監督からのバトンタッチを受けて就任1年目にして「選手権ベスト8」だったチームの最高成績を塗り替えた清水恭孝監督も厳しい制約の中での指導についてこう続ける。

「部員数が多くなってしまったのでスペースがあると嬉しいのは確かですが、欲を言ったらきりがないので。(サッカー部専用グラウンドを)一面欲しいだとか、コーチがもう少し必要だとか、いろんなことが言えると思います。ただ、久我山は久我山なので。

久我山のあるべき形の中で成果を出すんだと。成績の低い子を獲れたり、部員数を制限してまで勝たなければいけないというのは久我山ではありません。この中で成績を出さないと久我山ではないと思っています」


「李さんがクラブチームを立ち上げた時からお手伝いをしているのですが、最初は本当に小さい公園からのスタートでいい環境ではありませんでした。私は教員ではないので、(外部コーチが)プロの指導者だとすれば、『与えられた環境でやる』というのが私たちの仕事のスタンスです。『環境を変えなければ結果が出ない』というのは言い訳だと思っています。ならば引き受けなければいいだけの話しですから。与えられた環境の中で精一杯努力するというのが私たちのスタンスであり、それが久我山のいいところだと思っています」

ほかの強豪のように大会前にビデオで対戦相手を分析することはなく、大会期間中も監督主導のミーティングはないそうです。そしてこの年、準々決勝に出場した3年生7人全員が大学に進学するらしい。

キャプテンは学習院大に進学し、高校教師としてサッカーを指導するのが夢で、準々決勝で決勝弾を放った選手は慶大法学部を受験予定だとか。

全国大会で優秀な成績を収めれば推薦とかいろいろあってサッカーをメインに大学に行く子も多いんでしょうが、学力のみの試験でこのあと入試に臨む子もいるらしいね。勝ち上がれば勝ち上がるほど親も気が気でないですな…(;_;)

世の中、こうした國學院久我山みたいな学校も増えてきて「スポーツだけができればイイ」という学校はだんだん少なくなってきています。

2010年に甲子園で春夏連覇した沖縄の興南も野球部監督兼理事長兼校長の我喜屋優さんは「スポーツクラスを廃止」しました。

理事長で校長の興南・我喜屋監督 スポーツクラスを廃止したワケ

ここまで45試合。記者席から見ている中で、一番気になった人がいる。興南の我喜屋優監督。

ベンチの端に立ち、選手たちの動きを見守る顔がなんとも優しいのだ。「ちゃんとできるか?」「大丈夫か?」と言うように、エラーしても、サイン通りいかなくても表情を変えない。

いつも温かく選手を包み込むようなまなざしは、見ている側をもホッとさせる。「興南のグラウンドでは違うよ(笑い)。失敗したらすぐ選手集めてね。甲子園に来る前に準備はしておくから」

我喜屋さんは高校と中学の理事長、校長という肩書もある。10年7月、春夏連覇の間に理事長に就任した。最初に断行したのがスポーツクラスの廃止。

「スポーツで入ってケガをしたら行き場がなくなっちゃう。その子の将来が駄目になる。だから今は、どんなにスポーツが優秀でも成績が2とか1の子は入れない。頭が悪いんじゃなく、そういう子は先生の話を聞いてないんです」。

いずれ社会に出たときに人生の勝利者になってほしいと願う。だから「授業中に寝てたら大変ですよ」とニヤリと笑う・・・

考えていきつく先はだいたい一緒というわけです。「プレイは人格を越えない」し、勉強もまた人格を越えない。「スポーツだけ」「勉強だけ」のものさしで生きていくのはわかりやすいけれど、モノを考えなくなるんですよね。

國學院久我山の李済華総監督が言う「制約があるからアイディアと工夫が生まれるんです。制約があることで創造性も出てくる」がまさにこれ。

勉強でも好きなだけ時間を使ってやっていいですよ!なんて言われたら、逆に困っちゃう。「今週習ったものは今週テストがあるんです、量が多すぎて時間がないんです」という制約があるから工夫もアイデアも創造性も出てくる余地がある。

そして、ダラダラと時間をかけるよりも、短期集中でやったほうが成果も出たり、時間がないほうがかえって工夫が生まれて、隙間時間を活かせる可能性も出てくる。

また短期集中でやることで、精神や気持ちがリフレッシュされやすく、切り替えて取り組む訓練にもなる。ドカンと気分転換しなくても、頑張れる。継続的に一定の努力を可能にしてくれる。

だからボクは子供には制約があったほうがイイと考えています。校則、ルール、時間の制約、行動の制約…etc それらが厳しく子供に課せられることで子供自身が工夫やアイデアを出していくようになる。その練習を今してる。

制約がまるでない子供は、その練習をせずに社会に出て行くことになる。なんの体験もないのに「アイデアも工夫も」でてきようがないもの。

もし、それを学校や部活で学んで外に出ていけるなら、それは幸せなことです。誰も教えてくれないからね。

自由になりたいなら不自由さを知らなくちゃならないし、なんでも自由にしていいよっていわれるとその不自由さに困惑する。自由の中に不自由さがあり、不自由さの中に自由がある。

ちょうど私たち親世代と同世代で「スポーツだけ」をしてきた人たちをテレビなどで見る機会も多いでしょう。それを見ると「プレイは人格を越えない」ことがわかる。

「~だけ」を子供にやらせるのはもったいない。それは子供の可能性を奪うことにもなりかねない。子供の器はそんなに小さなものじゃない。

だからといって、なんでもかんでもやらせりゃいいってもんじゃないし(>_<)、やっても成果が感じられなければ、なーにもしたくなくなっちゃうから。

これは子供だけじゃない。働く親が増えて、子供を見たり関わる時間が少なくなった親にも言えることで、時間という「制約があるからアイディアと工夫が生まれるんです。制約があることで創造性も出てくる」。

親の時間がないのに「時間がない」というばかりでアイディアも工夫もなければ、成果はなにもないっていう結末、つまり子供はなんの達成感も持つことなく成長するってことになる。

子供が「スポーツだけ」やってたら健全に育たない可能性が高まるように、親も「仕事だけ」やってたら子供は健全に育たない可能性が高まる。

だって人はね、大人も子供もみな『人々はあなたに気にされたがっている』。だからね『それを小さな振る舞いで表そう』とジョン・ウッデンは言っている。『大切なのは、小さなことだ。小さなことが、大きな出来事をひき起こす』とも言っている。

ボクたちもジョン・ウッデン先生に倣って、いつでも顔を上げていよう、そして出来る限りを尽くすんです。誰もそれ以上できないのだから。