oyawaza418
こんにちは、ストロング宮迫です。

学校が始まった地域もあるようですね。まだ夏休みのところももう数日。ここでは、夏休みは計画の立て方や勉強のこなし方によっては、意外となにもできずに終わることもありますよ!と少し脅し気味に話してきました。

実際はいかがだったでしょうか?

先日話したお母さんなんかは「長い1ヶ月でした。子供が家にいるというのはプレッシャー。早く学校が始まってほしいというのが本音です。」とおっしゃっていました。

まあ、ご飯の支度からなにから子供がいれば面倒なんでしょう。逆に「1日中仕事で家にいません。どう勉強させればいいでしょうか?」という質問もありました。

誰も手をかける人がいないけど、勉強をイイ方向へというのは、宝くじを買わないで宝くじを当てたいというのに似ています。そういう意味では、学校が始まって、夕方以降の一定の時間に子供が帰ってくるという生活が現代人には一番合っている生活スタイルなのかもしれないですね。

夏休みも終わりに近づき、塾も夏休みの最後の数日はお休みのところもあると思います。ボクなんかは、この夏休みにあまり成果がなかった方、あまり手をかけられなかった方には、この塾もない学校もない数日こそが親子で向き合ってじっくり勉強できる最後で最大のチャンスと考えています。

いつも顔を見ている我が子の成長をそばで見ている親は気づきにくいものですが、この夏休みにまた1つお子さんは成長しているはずです。「もっと勉強しろ」でもなく、「もっと頑張れ」でもなく、「何が成長したのかな?」という目で夏休みの最後の数日を見て過ごしてみてはいかがでしょうか?

1つ皆さんのお耳に入れておきたい話があります。少し長いですが、引用しますので、ぜひ読んで下さい。

養老孟司先生から「子育てがつらいママ」によく効くメッセージ

最近のお母さんが子育てをつらく感じるのは、子どもの扱いかたがヘタだから。

子どもは「自然」な存在なので、思いどおりにならないものですが、今のお母さんは都会で育ったから自然とのつきあいかたがヘタなんですよ。

ちょっと話が飛ぶようですが、子育てって「手入れ」なんです。

たとえば自然をそのまま放置すると、屋久島などの原生林になり、完全に人工化すると新宿などの人工的都市になる。「手入れ」すると、「自然」は田や畑や里山になる。里山の風景は人工的に作ろうと思って作れるわけでなく、手入れしながら自然にできあがったものなんです。

「手入れ」に必要な条件は毎日毎日やること。

雑草が生えれば抜くし、畦がくずれれば作り直すし、虫がいればつまんでとる。これは農作業ではあたりまえのこと。

そして「子育て」も全く同じです。ほっとけば原生林状態になり、社会で生きにくくなってしまうので、毎日やかましく言って少しずつ修正していく。

でもどんな子になるかはやってみなくちゃわからない。まあ、原生林でもなければ、新宿でもない、その間の幅広いどこかにおさまるくらいしかわからないんです。

「手入れ」をする場合、重要なポイントは相手は「自然」だっていうことをしっかりわかっていること。

本来、思いどおりになるものではないけれど、手入れによってはなんとかなるくらいのものだということを理解することです。自然のものと、人間が作ったものに対しては接しかたが全くちがいます。

人間の作った社会では、しかたがないということがない。つまり街中の道路に穴が開いてそこに落ちてけがをした人がいたら、だれかの責任になります。

でも山の中に穴が開いてけがをした人がいてもだれの責任でもない。自然の世界では、自然は勝手に進行するんだから、それを上手に利用しながらこちらが生きていくしかないんです。

「子育て」も「農作業」もこの「自然」を相手にしている同じ行為。だけど人間の作った人工の社会でずっと生きてきた人が、突然自然状態で入ってきた「子育て」というものをうまく生活の中で折り合いをつけていくのはむずかしいんですね。

生活の中にほかに「自然」を相手にする要素が全くないわけだから。農作業を考えればわかりますが、「手入れ」に必要なのは「努力、辛抱、根性」。

だから子育てがたいへんなのはあたりまえ。いわば、山林原野を里山に変えていくのですからね。

育てやすい子なんてそういません。・・・

夏休みにさまざまな子供たちを見ていて、「手入れなし」の子供たちが最近かなり増えているような気がいます。「原生林」そのままの子供たちは一見たくましくも見えますが、近づいて接してみると、ひどく寂しがり屋でモロいようにボクには思われます。

この夏休み、お子さんには十分お金を使って楽しませたことでしょう。あと数日の貴重な夏休みは、「お手入れ」に親の時間を割くのはどうでしょうか。

今まで出ていなかった「芽」や少し伸びた「枝」、水や養分を蓄えた「幹」は夏前よりは少し太くなっていないか。

よーーく見てやって下さい。「しっかり見てやる」これも手入れのうちの1つです。

もう1つ、今度は養老孟司さんが書かれた「バカにならない読書術」からいくつか紹介しましょう。
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こんなことを養老孟司さんは書いておられます。

「バカにならない読書術」養老孟司著

欧米では、親が本を選んで子どもに与えることが多いようです。ただ、それを採り入れるかどうかは子ども次第。そこからは子どもの自主性になる。

彼らの親子関係は、日本人とは随分違う。

肝心なのは、親子関係が一生のうち、どれくらいのウエートでどれくらい続くのか、ということです。

欧米人、特にアングロサクソンでは、16歳くらいになるともう親からは独立です。

だから親は小さいうちから自分が子どもに与えられると思うものを、むしろ押しつける形で与えていく。そういう親子関係なら当然でしょう。

日本の場合には、どっちかというと、どこまでも続く親子関係です。そういう状況の中ではやり方がまったく違ってくるわけです。

いかがでしょうか?

「ゴール」があっての「押しつけ」というのは、親がそばで勉強を見る際も、口を酸っぱくして言っていることです。

いずれ独り立ちして自ら勉強をできるようにするためにそばで勉強を見る。それなくして、「子供が自分で勉強しない」はなしですよと。

養老さんの話でいけば、ボクの与え方なんかは完全に欧米型ですねえ。18歳前後まではボクの持っているもの、考えていること、感じていることなどをとにかく子供にぶつけることに決めています。

例えば、明日はテストなので子供たちが勉強しているとします。これはぜひ見せておきたいとボクが思うテレビがやっている。

「ハイ、集合!!ちょっとこれ2時間スペシャルだけど、見ようぜ!」

「あのう、明日テストなんですが・・・」

「お前、テストの前日の夜ってことは、もう仕上がって、あとはもうチェックするだけだろう。問題はないはずだ!」なんて・・・

もちろん録画してあとで見せるってこともありますが、その場その場でボクの優先順位があるんで、こういうことが時に起こるわけです。いわゆる面倒くさい親ですな。

じゃあ、見せたら子供たちはボクの意図したことがわかるのか?というと、それは疑問です。質問しても答えられないし、見ても意味がわからないことも、しばしばですから。

でも、それでいい。与えて、ぶつけておくことが大事と考えているからです。

まあ、そこは各家庭のそれぞれの方針がありますから、決めていただくとして、もしかしたら今の日本ではこの欧米型と日本型がミックスとなり、「押しつける形」で「どこまでも続く親子関係」となっているのかもしれませんね。

さて、他には

脳の発達には身体を動かすことが大切ということが、なぜわかってきたか。障害児の教育を一生懸命やっている人たちが、それに気づきました。特に脳性小児麻痺の子どもの発達の観察からわかってきたことです。

自分で身体の移動ができない場合、かわいそうだから寝かせておくわけです。小さいときからそうやって寝かせておかれた子どもは、実は言葉をしゃべることができない。

だから何をするかというと、とにかく自力で動けるように、と無理やりにでもハイハイを助けてやらせる。すると、次の段階でちゃんと言葉をしゃべることができるようになる。

自分の力で動きだすと、はじめて脳の入出力が大きく回り出すからです。

興味深い話ですね。

養老さんは、脳の入出力について、こう書かれています。

「バカにならない読書術」養老孟司著

昔から言われているように、人は「知育」「徳育」「体育」という三つで、成長していきます。

「知育」は何かというと、感覚です。五感です。何かを感じる、つまり「入力」です。

「徳育」というのは、頭の中で起きることです。五感によって入力された情報をもとに、行動を決めます。その状況で自分がどういう行動をするか、あるいは行動をどうセーブするか。それを頭の中で決めるわけです。コンピュータ用語で言えば「演算」です。

最後の「体育」というのは、この演算にもとづく身体の動きです。「出力」と言い換えてもいいでしょう。

この「知育」「徳育」「体育」というのは、脳のはたらきそのものと言っていい。われわれの脳は、外から「入力」を受けて、内部で「演算」をして、それで結果を身体の動きとして外に出す、つまり「出力」する。

ここでよく誤解されるのは最後の「体育=出力」です。身体を動かすというと、なにか運動をすることだけのように聞こえますが、そうではありません。

身体の動きは、コミュニケーションを作っています。言語も表情も。言語は声帯や舌を動かすことだし、表情は、筋肉の動きです。



現代社会において一番足りないのは体育です。

わかりやすく外遊びのときのことを例にしていうと、都会で暮らしていたら、アスファルトとかコンクリートという基本的に同じ固さの地面しか踏まない。しかも平坦な地面しか踏まない。

つい何世代か前だったら、山や田んぼのある土地で遊んでいました。一日じゅう違う固さの地面をしょっちゅう踏んでいる。

なぜ地面の固さが問題なるのかというと・・・

子どもは、感覚から入って来るそういう(地面の固さの)「違い」を脳に入力し、それに従って動きを調整していく。


固さの違う地面を踏むと、身体の動きをその都度変えなきゃいけない。そうすると頭の中にはある種の運動制御のモデルが自然にできてくる。


だから私は、できぼこ道を歩けと、よく言っています。足の裏から、違う固さの感覚が脳に入力され、その都度転ばない歩き方を脳で演算して、運動つまり出力する。

「どんな本を読んであげたら、子どもの脳の発達にいいでしょうか」と質問するおかあさんたちは勘違いしていると養老さんは言います。

順を踏んでいくことが、教育では大事なのです。その順を踏んでいくときの一番の根本になっているのが、脳の入出力が循環するということです。

一歩でも動けば、世界は変わる。そのことが重要なのです。


だけど、今の人はどう思っているか。

幼いころから英語を勉強させるとか、特定のことをやらせたら頭の中でどんどんその能力が増すと思っている。その単純な因果関係というとらえ方が間違っているのです。

二宮金次郎の伝記では、薪を背負いながら「本を読んだ」、つまり寸暇を惜しんで勉強したことを偉いと言っている。そうではありません。大事なのは「薪を背負いながら」の方なんです。

家が貧しく、幼いころから手伝いをさせられた。どうすれば薪を効率的に運べるか、少しでも肩が痛くならない背負い方はないか、近道はないか、幼いなりに考えたでしょう。そうしながら本を読んだ。だからこそ、本をよりよく理解できた。「知育」「徳育」「体育」が子どものころから循環していたわけです。

もし、ずっと家の中にいて本ばかり読んでいたら、「尊徳」にはなれなかったと思います。

「薪を背負いながら」読む。あれが正しい読み方なのです。その像が八重洲ブックセンターの前に建ててあるのは、つまり、意味があるのです。

長くなりついでに、養老さんが「誤解されている」とおっしゃる言葉についてもう少し。

文武両道

学校で文武両道というと、勉強しながら甲子園に行くことだと思っている人がいるかもしれない。

昔の人なら午前中は正座して「論語」を読んで、「師のたまわく・・・」とやって、午後になったら竹刀を持って道場に出て殴り合う。そうではなく、「論語」を読んだ結果が自らの行動になって出てきて戻るということなのです。


「文」というのは、脳に入るほうで、いわゆる「知育」です。「武」というのは出すほうで、つまり「体育」です。「文武両道」とは、本来、入力した結果を身体で動かし、身体を動かすことで新たな入力を得る、という意味だったのでしょう。

ところが、いつごろからか、勉強も運動もできる、というように、別々のものにしてしまった。

「子どもは親の背中を見て育つ」

子どもは親の行動を何でも手本にする、だから親はいい手本を示さなきゃいけない、という意味で使われています。

本来は、親自身が自分で見えないもの、気がついていないものを子どものほうが気がついて育つ、という意味でしょう。

自分の背中は見えませんからね。

夏に外に出て遊ばなかったご家庭の親の方はぜひ「バカにならない読書術」養老孟司著を読んでみて下さい。

もう少し本の内容を知りたい方は、このブログが詳しいです。

オススメ!「養老孟司先生のタケシくん虫日記」こちらもぜひ!
20160826
※この毎日親技は2010年8月26日・30日に配信したものです
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うれしい報告

『10の鉄則』の感想、続々と・・・

小6 ひこにゃんさん

買う前は半信半疑でしたが、ボーナスが出たので、ダメ元で思い切って購入しました。ごめんなさい。

もう少し早く出会いたかったです。夏休み前に読んでいればと….

気も引き締まりましたが、これまでの成績低迷が親である自分の責任であると痛感しました。

悔やんでも仕方がないので、これから出来る事を頑張っていきます。

特に目標を達成するための決まりのところ、家庭学習で短時間で成果を出す点はよく肝に銘じて進めていきます。

でも、ここまで悪い親が引っ張ってきてしまい、罪悪感で子供の顔をまともにみることができないんです。

悔やんでもだめですよね。残りの夏休みをしっかりやってまた報告させてください。

ありがとうございました。

以前の後悔っていうのは、「今」が前に進んでいれば、薄れていくものです。

全く消えて無くならないけど薄れていく。そのためにも「今」が大事です。

前に進んでいれば、成果が「今」出ていれば、以前の後悔の種は全部これからの肥やしになる。

以前を後悔し、そして今も悩んで停滞している、これがもっとも最悪で、どうしようもない事態です。

昨日よりも何か1つ。昨日できなかったことが今日は1つできるようになった。

たったこの1つの積み上げだけ。

難しいことじゃない。誰だってできること。

そのためには親自身が今やっている成果の出ないことに、自分自身に厳しく目を向けることです。

昨日よりも今日!誰にでも絶対出来ます!ファイト!

中2 もぐもぐさん

教科 = 数学
テスト名 = 中二前期中間試験

点数報告 = 中1学年末60点→中2前期中間92点!\(~o~)/

ちなみに、親技開始当初からの推移は、

中1前期中間47点→前期末69点→後期中間73点→学年末60点

鉄則8こだわるの1点だけ・・・でした。あとはしいて言えば、鉄則4でしょうか。

(6月くらいに、30点あげる会にも入会しましたが、いけドン法を行う余裕がなかったです。)

1年の学年末は、点数も落ち、私も落ち込みました。そのころは私もそばにつく時間が減り、息子も空間図形の問題が理解できず、私も上手に教えられなかった。仕方なかったと思います。

点数が落ちたときには、報告する気力が出ませんでした。
すみません(>_<)

今年の春から塾に通い始める条件として、家庭学習を必ずやること、塾の宿題はピックアップして2回は繰り返して解く、時間短縮するまで落とし込むことを、息子も約束しました。

塾に関しては、親技の塾の選び方や通いだすタイミングのページが本当に参考になりました。読んでいなかったら、きっとなんとなく塾選びをし、成果の出ないまま通わせていただろうと思います。

塾では5教科を選択したので、数学だけ勉強というわけにはいかず、中間テスト2週間前から、他教科の勉強も取り入れながら、塾の宿題を中心に、主に数学の問題の理解→時間短縮をなるべくこなしました。

数学の問題が理解できるようになり、正解もだんだん増え、大部分の問題の時間を半分に落とし込めるようになって、塾と家庭学習の成果は息子自身が感じることが多かったようです。

時たま「母ちゃん、難しいやつ解けちゃったよ!」と言いながら、嬉しそうに勉強しています。

1年生の時の親技開始時には、想像できない姿です。

ただ私が「ずっと」隣にいることを拒むようになり、きちんと自分で時間は計るから!ということで、勉強中は少し離れてそばで違うことをしながら、すべて完璧ではなかったけれど、チェックを入れる・・・というやり方になりました。

最近は部活のことばかり考えることも多くなり、上の空のこともあるのですが、テストの結果はやっただけ上がると実感したようで、私の話もすんなり受け入れてくれるようになりました。

この調子でがんばります。いろいろとありがとうございます。

親がそばでやっている意味を理解できるなら、少し距離をおくのもアリだと思います。

しかし、まかせっきりはまだまだ不安な要素がいっぱいです。

きちんとチェックはしていきましょう。

「難しいやつ解けちゃったよ!」この言葉がいかにすごいことなのかをお子さんと共有できたらいいですね。

部活も頑張る!もちろん勉強も頑張る!それが王道です!

気苦労も多いでしょうが、子供が反発するのは成長の証。ファイト!

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