こんにちは、ストロング宮迫です。

入試のシーズンのこの時期、受験生の親はもちろんですが、来年、再来年受験を予定している親の方もさまざまなことを考える季節です。

いつもは目の前のことだけを頑張ってきた皆さんがふっと、これまでの歩みやこれからの道を俯瞰して考える。そんな気分にさせる雰囲気は、この時期が、勉強においては1年の節目だからなのかもしれません。

そんな節目にここ数年は2年おきに読んでいただいているものがあります。ぜひ読んでいただきたいし、もう読んだことがある人も繰り返し読んでいただきたい。

紹介するのは坂田信弘著「山あり、谷あり、ゴルフあり」から。
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親の皆さんにはヒント満載の話ばかりだと思いますのでお付き合い下さい。

えっ、ゴルフはしないって!?

ボクもゴルフはもう15年以上は行ってないですなあ・・・いいんです、ゴルフの話じゃないですから。

「山あり、谷あり、ゴルフあり」の著者である坂田信弘さんは、

「ゴルフを国民的スポーツにしたい。日本のゴルフ界のレベルを上げたい。それには、日本から世界に通用するトッププロを育てることが一番の早道であり、ジュニアからの英才教育が大切」として1993年に坂田ジュニアゴルフ塾を開校。

坂田塾長を頂点に現在全国6ヶ所で運営し小学校3年生から高校生までの約200名が坂田理論を基本に日夜練習に励んでいます。

と坂田ジュニアゴルフ塾のサイトには書いてあります。

坂田ジュニアゴルフ塾

テレビの特集などで厳しい練習に励む子供たちを見たことがあるかもしれません。まあ、説明はそれくらいにして、まずは1つ読んでいただきましょうか。

最初に紹介するのは坂田信弘著「山あり、谷あり、ゴルフあり」の38番目に出てくる話です。

このメルマガでも成績がイイ子の家庭には「鉄の約束」があると紹介してきましたが、親にとっては少しばかり耳の痛い・・・でも、すごくイイ話なのでどうぞ読んでみて下さい。

坂田信弘著「山あり、谷あり、ゴルフあり」
その三八
子供との約束には、信頼の絆が見え隠れしているものだ

人と人の間には、約束というものがある。法律で決められたような約束じゃなく、家族の間で自然と交わされる約束事です。

約束である限り、守らなきゃいけない。でもね、往々にして親が破ってしまう。

休日に、遊園地へ連れて行ってあげる、遠くへ旅行に行こう。ところがその約束が、親の都合で反故となる。

子供は悲しいよ。怒るわけじゃない。ただ、楽しみにしていた親との約束が破られたことが悲しい。みんな、その悲しさを抱きかかえ、我慢していく。その悲しさを、親に面と向かっちゃ、言わぬものですよ。

ところがね、父親が約束を反故にすると、子供と一緒に母親も悲しむ。そしてその悲しさは怒りに変わり、父親に向かっていく。

その結果、どう決着するかは、その家庭しだいということでしょうか、怒る母親の隣で、子供は何も言わんよ。

ただ、また約束を破られるのが嫌だ、悲しい思いをするのが嫌だから、だんだんと父親と約束せんようになる。子供なりの、悲しい処世術でしょう。そしてその悲しみは、大人になるに従って、怒りに変わっていくのです。

私は塾生を我が子と思ってきた。子供にだけは、悲しい思いをさせたくない。だから子供とは、安易な約束はしないと決めている。目先だけの綺麗事でなく、本心で結ばれる信頼があって、初めて約束事は成立するものでしょう。

坂田塾の場合、子供たちと私の間にはゴルフがある。

ゴルフを媒介とした信頼感があって、初めて約束事も成り立つ。だから塾生との約束、守ろうとする。何があっても守り通す。

その一番の約束が、「坂田塾におったら、プロゴルファーになれるぞ」ということだ。だが、これには逆に、「プロゴルファーを目指さん子は、坂田塾には来んでくれ」ということでもあるのです。

そして「プロゴルファーを目指す限り、毎日球を打て」と約束させる。50球でも100球でも300球でもいい。球数の問題ではなく、絶対に毎日打てるだけの球数を決めさせる。

だからその時に「背伸びせんでくれ」と言う。「毎日700球打ちます」と言ったって、現実にできっこない数字だ。背伸びした球数では、一日はできても一週間と続きやしない。

まして体調の悪いときなど、打てたもんじゃない。どんなに体調が悪くても、這ってでも練習場まで来て、打てるだけの球数に決めさせる。

これが、私が子供たちに求める約束です。

そして私から子供たちへの約束が、「必ずプロにする」だ。多くの子が250球とか300球と言ってくる。その球数を毎日打つ。

毎日とは、そう1年365日の毎日だ。盆も正月もない。入塾したら、とにかく毎日打つ。毎日その球数を打ち続けた者、つまり約束を守り通した者が、トップアマとなり、そしてプロテストに合格していく。

ただこの「毎日の球打ち」の約束は、私が塾生に要求した約束だ。子供から申し出てきた約束じゃない。

でも、過去に一人だけ、自分から言ってきた者がいた。それがね、上田桃子だった。

上田は、「毎日400球打ちます」と言ってきたよ。小学5年のときだった。

「お前、そんなに打てるか?」
「打ったら、プロになれるんでしょ?」
「ああ、なれる」
「だったら、打ちます」

自分から約束の球数を申告してきたのは、後にも先にも上田だけです。いくら何でも小5の女の子だ。1期生の古閑美保たちだってまだ中学生だったのに、小5の子が申告してきたのです。見事なる覚悟でしたネ。

「自分で決めた球数を毎日打ち続けていれば、必ずプロになる」と教えたのは私です。私はその約束を守るために、厳しくも当たった。スイングの悪いところ、ここだけは変えなきゃいかんというところについては、殴りもした。

言葉でいくら言っても、頑固な部分は直らない。だから殴り、その悪い部分に痛い思いをさせる必要があった。鬼にでも、何でもなると、私は思った。その結果、子供たちは強くなった。そして成功していった。

子供との約束は、そこに信頼がなければ成立しない。その人間の存在が、その子の心の中で大きなウェイトを占めていなければ成り立たないものだ。

私との約束は、塾長との約束だ。でも子供同士の約束ともなっていっている。絶対に、破り破られることのない約束となっていったのです。

そんな約束をするということは、少なくとも、一人の友を持つということです。5人と約束したならば、5人の生涯の友を持つことになっていく。私は、子供たちにそう教えてきた。

だからね、「約束」というもの、軽々しくはできない。「だから約束は、慎重にせいよ。そして、したからには覚悟せよ」と話します。

我々大人はいつも約束する。いつでも破れる約束で、障子紙よりも溶けやすい約束だ。でも、子供たちの約束は違う。特に塾に入った子供たちとの約束は、必死の約束だ。だから私は、いつも子供たちに言っております。

「お前たちをプロにする。そしていつの日にか、世界中、いろんなところを旅するプロゴルファーになってくれよ」と。

今年迄、塾出身者33名がプロテストに挑み、27名がプロテストに通りました。男子9名、女子18名の合格であり、合格率は8割1分8厘です。落ちた6人もいずれは通ると思います。

何故ならば私との約束、友との約束を守ってきた者たちです。

そして来年、その6人に新たなる挑みの者たちが加わって、プロテストに挑んでいくでしょう。約束を守った子供たちが……。

皆さんも勉強の約束をするでしょうが、その約束って、

子供が○○します!

という約束で、それに対する「親の約束」ってないんじゃないでしょうか? 子供ばっかりに約束させる!なんてことはないか? いかがでしょう?

子供が○○します!そして、それをやったら、絶対成績を上げます!こういう親はあまりいないですなあ・・・

文中にあった

絶対に、破り破られることのない約束となっていったのです。そんな約束をするということは、少なくとも、一人の友を持つということです。

これはイイ話ですねえ。

友ではないけれど、鉄の意志で「鉄の約束」を実行している家庭は厳しいけれど、親子の信頼関係がしっかりしているのは、このあたりの感覚に似ているのではないかと思いました。

さて、もう1つ。今度は12番目に出てくる話です。少しばかり省略してお届けします。

坂田信弘著「山あり、谷あり、ゴルフあり」
その十二
どんなに辛くても私の前で笑顔を絶やさない子、本多弥麗

北の大地が雪に覆われる季節となった。この時季になると、一人の塾生を思い出す。札幌のジュニア塾生だった本多弥麗である。

小学4年で入塾し、いつもニコニコとしていて、ゴルフに一生懸命な子だった。その弥麗が、6年のときに学校の体育の授業でヒザ周辺の小骨を折ってしまった。

手術したが、結局1年と8ヵ月、ゴルフができなかった。その間、弥麗は月1回の合同練習にやって来た。真冬でも、1回も休むことなくやって来た。

札幌塾、冬場の練習の球数は150球までである。夏は好きなだけの球数を打たせて貰ってきた。

札幌の練習場、夏は痛みが出ていない球、新球を使う。そして冬は二夏、三夏と使った、旧球を使う。夏の集球は簡単だが冬は大変だ。雪、降らぬ夜、吹雪がない夜、ゴルフ練習場の職員の方が雪の中に埋まりし球を足の裏で掘り出しての集球となる。

冬の札幌塾、感謝の気持ちなしでは踏み込めぬ領域である。そうして拾い集められた150球は、夏場の1000球に相当する値打ちがある。

冬場の合同練習も、そうした環境で行なわれて来た。しかし弥麗は球が打てない。それでも合同練習に来た。

ジャンパーを着込んで、仲間をジーと見ていた。私は言った。

「お前家に帰って勉強でもしていたらどうだ。ここにいても球が打てんのだし」
「いいえ、私、みんなの練習を見るの、楽しいですから」
「そうか、早く治したいな」
「はい。早く治してみんなと一緒に球を打ちたいんです」

弥麗はいつものようにニコニコしながら答えてくれた。イヤな顔ひとつしたことがない子だった。

弥麗も球を打つときが来た。しかし1年8ヵ月の遅れは大きかった。同級生がふたりいたが、その子たちはどんどん上手になり、弥麗はいくら練習してもふたりに勝てなかった。

中学校でも高校でも、弥麗は一度も北海道を勝ち抜いて全国大会に出場したことがなかった。いつも先輩とか同級生とか後輩が全国大会へと向かって行った。

確か弥麗が中学3年の冬だったと思う。弥麗の母親が私のもとにやって来た。

「もう十分です。辞めさせてください」母親はじっと下を向いたままだった。

弥麗は母親と兄ふたりの四人暮らしだった。

私は、問うた。「小学校のとき、球が打てない体でもニコニコ笑ってみんなの練習を見て、とことこ私のあとを付いてきた。そしてようやく打てるようになった。そりゃ1年8ヵ月の遅れは大きい。いくら練習しても追いつかない。」

「そういう状況であっても、弥麗は私の前ではニコニコ笑って球を打っていた。真剣に、しかも笑顔を絶やさずにだ。その子にどうしてゴルフを辞めよと言うのか」と、聞いた。

母親は、「涙です」と言った。

「涙だ?」

「朝起きると、枕元のシーツがびっしょり濡れてました。ずっとそうでした。特に坂田塾長がいらっしゃった合同練習の翌日の朝、いつも濡れていました」

いつも一生懸命やっていた。でも成績が上がらない。やはり辛かったのだと思う。

そして母親はこう言った。「親として、娘の辛い姿を見るのにもう耐えられません」

私は言った。「本多弥麗が涙の一粒も見せたり、もうダメですと言ってきたら、退塾させる。そうでなければ退塾させん。あんたはもう、□出しするな」

母親はそのとき号泣されておりました。そして最後に「ありがとうございます。本当にありがとうございます」と言って帰って行かれた。

それからのち、私は弥麗をしごきました。「この程度のことができんのか」と叫びながら、殴りもしました。周りの者は、私を鬼と言ったよ。

でも私は、弥麗に強くなってもらいたかった。徹底的に基本だけを教えた。6番アイアンだけを教えた。

高校2年の冬、本多弥麗が札幌塾の来季のキャプテンになった。やっぱり弥麗がいちばんヘタでしたから。ジュニア塾ではいちばんヘタクソがキャプテンとなる。いちばん上手い者がキャプテンなら、すべてが滞りなく進む。

物事の伝達を考えても、強い者からなら、簡単に伝わります。しかしそれは指導者の都合。

私はそれじゃダメだと思った。だからいちばんヘタクソをキャプテンとすることにした。下手な者がキャプテンとなると、みんなにモノ言わなくちゃいけないから必死に練習する。

すると同級生らは「あいつがそこまで練習するのなら、俺らも協力しよう」という気になる。ここに横のつながりができる。

そして後輩たちは「先輩があそこまで練習しているんだから自分たちも」と、上を見て学ぶ機運が生まれる。子供社会ではあるけれど、ここに横の糸と縦の糸ができ上がる。

だから私はいちばんのヘタをキャプテンにしてきました (省略)

話はまだまだ続きますが・・・・

ニコニコ顔の子供だから「きっと楽しんでいる」とは言えないのではないでしょうか。「ウチの子は毎日楽しそうにやっています」とよく聞かされますが、本当なのか?

枕は濡れていないか? 一瞬寂しそうな顔を見せないか?

ここに出てくる本多弥麗選手のお母さんはそれをちゃんと見ていた、わかっていたということですよね。そこがポイントなんだと思うんです。毎日顔を合わせるのは親ですから。

これまでたくさんの2つの顔を持つ子供たちに会ってきました。親が持つ認識とはまったく別の顔を持つ子供たちです。

その子供たちの抱える問題は解決してやれない。でも、それに気づいてやるだけで、話をきいてやるだけで子供は涙を流した後に、また前向きに頑張る、頑張れる。

妙な不安を持つ必要はないけれど、ときに枕が濡れていないか?と心を配ってやったらいいですね。

もう余計なコメントは挟みません。

「親ってなんなのか?」皆さんがそれについて考えるヒントになれば、本を一生懸命入力した甲斐もあるというものです。

坂田信弘劇場、どうぞ!

坂田信弘著「山あり、谷あり、ゴルフあり」
その二十二
私と妹を会わせたいがために息子はプロゴルファーを目指した

※このときの今は2007年のことです。

私の長男は、ツアープロを目指しての修行の身であります。プロゴルファーの息子だからプロを目指す。その考えと行きゆく流れ、当然と言えば当然でありましょうが、実情は違っていました。

私は、息子がプロゴルファーを目指した理由を知らなかった。03年3月に放映された「ゾーン」と言う番組の放送時まで、知りませんでした。

番組で、息子はプロを目指した理由を語っていた。雅樹が小学4年のときの出来事。長女寛子は小学1年だった。当時私達は福岡県豊前市中村の雇用促進住宅で暮らしていた。

ある日の午後、雅樹が学校から帰ってきた。寛子が住宅の砂場でひとり遊んでいた。

「ひろこ!」と雅樹が叫んだ。普段は「おにーちゃ-ん」と兄の元に駆け寄る寛子が、そのときはうつむいたままだったという。寛子はうつむいたまま、泣いていた。

雅樹はその場にしゃがみこみ、「苛められたんか」と聞いた。

寛子は激しくかぶりを振って、呟いた。「お父さんに会いたい」

この時、小学4年と1年の兄妹二人、どうしたらお父さんが家に帰ってきてくれるかを砂場の中で相談した。

その頃の私は、ツアーを追いかけるだけの生活だった。予選を通れば土、日曜日、家へは帰れない。しかし私は予選を落ちても帰りはしなかった。

帰る為の交通費は勿体ないと考えていた。その時間を勿体ないと考えた。総てを練習と翌週のトーナメントに当てていた。

小学校も高学年になろうとする雅樹は、野球に夢中だった。父親がプロゴルファーとは言え、ゴルフなんぞに何の関心持っちゃいなかった。

しかし二人で相談したその結論が、「僕がプロゴルファーになりたいと言えば、お父さんは僕にゴルフを教えるために、今よりは帰ってきてくれるかも知れん」だった。

あるとき、雅樹は私に「プロゴルファーになりたい」と言ってきた。「そうか……」と答えた私は他には何も言わなかった。

雅樹は野球の友達と分かれ、独りぼっちのゴルフの道に入っていった。私は雅樹に自分の使い古しのクラブを渡した。太いグリップのクラブです。

シャフトも硬いX。それを小学4年生に使えと言った。子供に対して無頓着すぎた。残酷だった。少なくともシャフトだけでも柔らかく、グリップだけでも細く替えてあげれば良かったと、今になってそう思う。

雅樹は太くて硬くて長いクラブで球を打ち始めた。そのため左ヒジを曲げて打ち始めた。本能的にそうでなけりゃ打てないクラブだった。

雅樹は今、28歳になるが、未だにそのクセが残る。そのクセをなくすために、雅樹はずいぶんと時聞を費やしていると思う。私の無知、無頓着が子供に背負わせた結果だった。私はその後も家に帰りはしませんでした。

旅から旅の生活を送っていました。雅樹のことも結局、放ったらかしだった。

その雅樹に初陣の時がやってきた。九州ジュニア選手権である。中学1年となった雅樹は、優勝を目指した。優勝できずとも3位までなら全日本ジュニアに出場できる、そこを今回の目標とした。

初日のスタートホール、雅樹はティショットでOBを打った。トリプルボギー。そして2番、3番、ダボだった。スコア80。

雅樹の初陣は終わった。ラスト3ホールは、いかなる奇跡が起ころうとも、どうにもならんスコアだった。

己の夢、破れる。そのことを一歩一歩の足取りで自分の体に叩き込んでいったラスト3ホールだったと思う。

今の、私であるなら雅樹を褒める。

出だしで崩れ、それでも80で上がったじゃないか。4香から18番まで1オーバーは立派だったと。でもそのときは褒めることはできなかった。私は結果だけを見る男だった。

80というスコアだけを見ていた。父に帰って来てと無言で訴え、大好きな野球までも辞めた我が子の気待ちがわかっていなかった。

時、過ぎて久しぶりの帰宅。雇用促進住宅に戻っていた私は、夕方、雅樹が中学から帰るやいなや、玄関の板の間に正座させた。

雅樹は帽子を取った。あいつはずっと坊圭頭だった。私に叱られるのを察知した雅樹は、両手を握ってヒザの上においていた。女房が、雅樹の右横に座った。寛子は左横に座った。

寛子は小学4年になっていた。

私は言った。「日ごろの生活、日ごろの練習、日ごろの勉強、全てが中途半端だからこんなスコアになるんだ」

「世間は、中途半端なヤツを応援しない。万が一お前がプロになったとしても、それはまぐれであって世間の迷惑になる」

雅樹はじっと下を向いていた。女房も寛子もうつむいていた。そして私は□にしてはいけないことを言ってしまった。

「父として、プロゴルファーとしてのお願いだ。ゴルフを辞めてくれ」

その瞬問、雅樹はボトボトと涙を流した。私は男が泣くのかと叫んで、丸刈りの雅樹の頭を拳骨で殴った。3発、4発。雅樹は声を上げて泣いた。

寛子が私の右足にしがみつき、「おにいちゃんを苛めるのはいやだ」と叫んだ。私は寛子を突き飛ばした。寛子は泣き叫んだ。女房が顔を上げた。その目がとても澄んでいたことは覚えています。

「雅樹を育て間違えたのは私の責任です。謝ります」と言った。家に帰って来ない亭王に謝ってきた。私は子育てなんて一回もしていない。

それでも女房は謝ってきた。女房は静かな声で言った。「でも雅樹の人格までも否定されると、これから3人、どうやって生きていっていいか分かりません。それだけを教えてください」

何も言えなかった。そして私は雇用保進住宅を飛び出していった。

旅から旅、ホテルのベッドで横になっていると、あの日を想い出す。右の拳に、雅樹の頭の柔らかさと暖かさが残っていることに気づく。

消そうと思ったが消せない。謝って、それで消えてくれるのならとも思うが、あまりに時間が経ちすぎた。

ならば私が死ぬまで持って行こうと思ってます。

坂田信弘著「山あり、谷あり、ゴルフあり」
その二十三
私は多くの方の善意に支えられてプロゴルファー稼業を続けて来ました

長男雅樹を怒鳴り上げ、そして殴った後、私は玄関を飛び出した。私は海へ向かった。海岸は家族と一緒に暮らす雇用促進住宅から500メートルほど。

砂浜ではなく小岩の続く海。私はその堤防に座った。対岸は山口県の宇部。この海、この堤防、そこは私の悔いを語る場でした。

どうしてゴルフが下手なのか。なぜあそこで30センチのパットを外したのか。過去と現在しか見えちゃいない場所だった。

そして私は初めて競技ゴルフに参加した息子を殴っていた。なんというバカか。プロでも80は叩く。中学1年の子が初陣の緊張感の真っ只中で、出だしのOB。2番、3番もダボの滑り出しで80叩くのは当たり前。

90叩いたって不思議じゃない。それを雅樹は80で回ってきた。今だったら誉める。しかしあの時は「80」という結果しか見えていなかった。

いつの間にか日は暮れ、夜になっていた。穏やかな潮騒の海だった。月明かりが海に斜めに走っていた。空の月は黄色だったが、海に伸びる月の明かりは銀色だった。

背中から、寛子の声が聞こえた。「お父さん、お家に帰ろう。今夜のご飯はカレーライスだよ」

雅樹が言った。「お父さんごめんなさい。僕、これからもっと一生懸命練習しますから、許して下さい」

教えて下さい、とは言わなかった。許して下さい、と言った。私は何も言えなかった。

寛子が私の右に座った。雅樹は左に、女房が雅樹の隣に座る気配を感じた。穏やかな潮騒だった。

寛子が私の右太ももを枕に横になった。そして言った。「お父さん、堤防って暖かいねぇ。お家のお布団みたい」

そのとき、涙が落ちた。声は上げなかったが、私は海を見つめたまま涙を流していた。そして、涙は止まらなかった。

私の父は和菓子職人でした。独立して、最盛期には店を3軒持った。経理部長の使い込みと、人様の保証人となってその人が倒れるとともに、倒産した。

私が中学3年の12月24日、一家6人、熊本を夜逃げした。兵庫県尼崎の守部に逃げ込み、それから宝塚の山奥、西谷に逃げた。農家の倉庫に畳を敷き、そこを住処とした。

私と父、母の3人で山から街に下るバスに乗り、仕事場へと向かった。日雇い仕事。スコップー本持って働いた。

父は、私が19歳のときに鬼籍に入った。2度目の脳溢血だった。

父が言った。「もしお前が成功したら、三分の一で生きろ。三分の一は国に戻し、三分の一は世間に戻し、お前は三分の一で生きて行け」全部自分の物にしようとすると、その重たさで足元が埋まると言った。「男は泣くな」と言った。

語り終えると、「熊本の水ば、飲みたかなあ」と言って昏睡状態に陥り、6時間後の朝6時40分、竹林の中のトタン屋根の家から逝った。

私は、父を西谷村の露天の焼き場で焼きました。まだ熱い骨を手で拾って骨壷に入れた。葬式の後、周りの人は言った。九州の男は業が強い。親が死んだのに涙ひとつ流さないのか、と。

私は父との約束と思って涙を流さなかった。お父さん、と叫びたい気待ちを抑え込んだ、私の気待ちを知っていたのは母だけだった。

母は「信弘ごめんね、ごめんね」と言った。その後、私と母と弟2人、妹の5人で山を下り、新たな生活に入った。

私は堤防で涙を流した。父親との約束を破ったな、と思いながら涙を流し続けた。私はそのとき初めて分った。それまでも頭じゃ分かっていたが、このとき初めて体で分かった。

私には家族がいる。そして多くの方の恩に支えられて生きてきた。

ゴルフ場のフロント嬢の笑顔ひとつ、メンバーの励ましひとつ、グリーンキーパーのメンテナンスひとつ、バンカーの砂粒ひとつ、樹木の支柱ひとつ、吹き抜ける風ひとつ、そのひとつひとつが私のプロゴルファー稼業を支えてくれていると。

時過ぎて、私はジュニア塾を開塾した。私は塾生を、成績で殴ったことは一度もない。挨拶が悪い、練習態度が悪い、そうした理由では殴り、怒鳴りつけて来たが、成績で叱ったことは一度もない。誰もがいつかは咲く花だと思っています。

咲く場所がどこになるかは分かっちゃいないが、我が子も塾生も、いつかは必ず花咲くときが来ると思っている。

生まれ変われるのであれば、また女房と一緒になり、雅樹と寛子を授かりたい。その時は、我が子を成績で殴りつけるようなバカな親にはならん。それだけはやらん。命を賭けても守る。

あの時、小学生だった寛子も、大学2年を終えた春、1年間米国へ留学しました。

3月28日のこと。家族で福岡空港へ見送りに行った。寛子は窓際の席に座っていた。私と女房と雅樹と、寛子の友達。合計13人での見送りだった。寛子は手を振り続けていた。

突然、友達の一人が叫んだ。「寛子が、私の名前を書いている!」

次の子が叫んだ。次の子も叫び、その次の子も次の子も。途中からみんなで、寛子が飛行機の窓に向かって書くカタカナの文字を大声で叫んでいた。

友達の名を書き終えると、寛子は「オニイチヤン」と書いた。「オカアサン」と書いた。「オトウサン」と書いた。そして「アリガトウ」と書いた。

飛行機は飛び立った。友達は皆、泣いていた。女房は金網を握り締めていた。体が激しく震えていた。

私の横に立つ雅樹は怒ったような顔で飛行機を見ていた。雅樹が中学1年のとき、私が「男が泣くのか」と叫んだその言葉を雅樹は守り通していた。

私はプロゴルファーとして、背伸びしすぎていたと思う。常にツマ先立ちの日々であったと思う。そのツマ先立ちが家族に強いるモノは多かった。

男は声は出さずに、涙を流せる。それが自然な姿ではないだろう。いつの日か、私は先に逝く。その時、私は雅樹に言わなければならない。

男は涙を流していいのだ、と、私はその時を待っています。日々、然り気なく過ごしております。

泣いちゃうなあ・・・・

ボクも我が子に、特に第一子の長男坊には数多くの罪を犯してきた自覚があります。申し訳ないと思います。

だから、ボクもいつか我が子に言わなければならないことがあります。自分が逝く前にね・・・

坂田信弘著「山あり、谷あり、ゴルフあり」は、現在古本でしか買うことができません。

この本は2004年からゴルフトゥデイで好評連載中の「我と来て、遊べや師匠のないゴルファー」の中から50話を抜粋して一冊の本になったものです。

本の内容にはゴルフのことも含まれますが、ここで紹介した以外にも是非読んで欲しい話がたくさんあります。

ゴルフには興味がないという方もいると思うので、念のため50話の項目を以下に掲げますので、購入されようかと迷っている方は参考になさってください。

見たところ、アマゾンの古本の在庫は12冊。たぶんこのメルマガの読者で買う人も多いと思いますので、在庫切れ、または高値になっている場合はブックオフなどでお求め下さい。

また、こうしたエピソードが数多くある坂田信弘の真骨頂はコミックで読むことができます。

【コミック】風の大地全54巻 原作:坂田信弘画:かざま鋭二

【コミック】奈緒子全33巻原作:坂田信弘画:中原裕

なお、坂田信弘劇場漫画篇はこちらで取り上げたことがあります。興味があればご覧ください。

坂田信弘著「山あり、谷あり、ゴルフあり」本の内容

その一 「結果は問わず」1メートルは蛮勇で打て。
その二 幾層にも厚重ねした基本を作る。
その三 変えること、変えてはいけないこと。
その四 一期一会。まだまだ日本にはすごい方がたくさんおられる。
その五 追求する調和あり。

その六 包丁研ぎの心に残る小鎚の音
その七 刀研ぎの小鎚のタイミングでスライスが直った。
その八 すべては次の人の為が、ゴルフエチケットの基本。
その九 鈍感になれぬならゴルフのプロにはなれない。
その十 グリーンの真ん中を狙う勇気と技術が攻撃ゴルフ。

その十一 ゴルフクラブは使ってなんぼですよ。
その一二 どんなに辛くても私の前で笑顔を絶やさない子、本多弥麗から教わりました。
その一三 人は世間のみんなが育ててくれる、そう弥麗から教わりました。
その一四 立ち仕事の美容師さんはアドレスが決まる。
その一五 感謝の心があれば挨拶の頭は自然と低くなるものです。

その一六 キャディさんと塾生は、一緒に泣ける家族のような存在になった。
その一七 10年前、川辺で出会った小さきゴルファーに会いたい。
その一八 いいスイングを目指せば、いいスコアが生まれる。
その一九 名指導者とは選手レベルまで降りられる人。
その二十 教育とは、教える側と教わる側の忍耐勝負じゃないでしょうか。

その二一 脳性麻痺の塾生が今春辞めました。本当に辛かったが受け入れざる得なかった。
その二二 私と妹を会わせたいがために息子はプロゴルファーを目指した。
その二三 私は多くの方の善意に支えられてプロゴルファー稼業を続けて来ました。
その二四 上達した人は自分一人の力で上達したわけではない。
その二五 どんなときでも緊張を持つというのは大切なこと。

その二六 みんなでひとつの目標に向かって一生懸命であればと思う。
その二七 世間は広い。どんな生き方をしようが所詮は井の中の蛙。
その二八 人との約束を破ったとき人は人でなくなる。
その二九 夕焼け空で18番を終えることが、プロゴルファーの最高に幸せな時。
その三十 回りたい気持ちが溜め込まれるから、試合でベストスコアが出せる。

その三一 「戻し振り」が力の溜め込みの方法。
その三二 胸をはりボールの近くに立つ構えがナイスショットを生む。
その三三 男子ツアーには「有言実行」の悪玉がいないから人気が落ちているのです。
その三四 富士山の自分の好きな向きによって、ゴルフの仕方がわかる。
その三五 体を強くしたくて、四六時中、木にぶら下がっていました。

その三六 二つのことを極める事はできない。だから一つのことだけに努力して欲しい。
その三七 忍耐こそ成功の秘訣なのです。
その三八 子供との約束には、信頼の絆が見え隠れしているものだ。
その三九 皆さんが応援してくれる理由は、球打つ子供たちの夢に揺れがないからだと思う。
その四〇 坂田塾は子供たちだけの世界だから上手くなれる。

その四一 一本のローソクが私のスイングを固めてくれた。
その四二 試合に出たいという気持ちが一人の子の気持ちを動かした。
その四三 不安と恐怖の中、桑原は36ホールを回りきった。
その四四 大手前大学ゴルフ部の歴史は、友情から始まった。
その四五 日本一の練習を知れば、己の今の緩さを痛感できる。

その四六 先輩への侮辱に根性ではらした平野童子。
その四七 個人競技を団体競技に変えたことで大手前大学は優勝できた。
その四八 チームワークが強い絆となったリーグ戦であった。
その四九 名誉のもとに戦うものにはプレッシャーは感じない。
その五〇 坂田塾の落ちこぼれたちが日本一になりました。

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坂田信弘劇場、これにて、ジ・エンド!!

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うれしい報告

親カツ講座メンバーさんからの報告

新小6 ジュンポンママさん

◆報告内容:親かつ前期を半年前に購入して統一テスト偏差値10アップ

以前、親カツ前期購入の際のご相談や偏差値60まで届かないご相談メールをさせていただいております。

子供が4年生の時、10の鉄則を購入し、親技メルマガに日々励まされ、親としてできることはやろうと決意し、3年生の終わりより、登校前の朝の勉強と夜の勉強を一日も欠かさず続けることができております。

私がこうと決めたら絶対に辞めない性格なので、息子にはかなりしんどい思いをさせたと思いますが、毎日やると平気になってくるもんですね。
今では息子は朝の勉強は当たり前になっております。

子供に寄り添ってみて、どんなことが苦手で何に時間がかかってしまうのか、だんだんわかってきました。

テストでの何度もの失敗を経て、息子のための勉強法を細かく分析し、あの手この手で志望校合格偏差値を上げるべくチャレンジしてきました。

私が何でも早めにやっておきたい性格ですので、親技前期も半年前に購入し、志望校合格偏差値になかなか届かなかった60の壁をやっと、やっと1月のテストで超えることができました。本当にありがとうございます。

秋に親カツ講座を購入した時から、苦手分野の復習を毎日の勉強に取り入れ、コツコツやっておりましたが、すぐ訪れた11月のテストでは結果が出ず、あろうことか今まででもっとも最悪な4教科偏差値49をとってしまいました。

テスト終了後の自己採点では、点数は結構取れており私も安心していたのですが、実際答案を返してもらうと、社会・理科の記述問題で漢字の一字ミスが多く、理解しているところなのに漢字ミスのせいで2教科自己採点よりマイナス40点ほどだったのです(泣

その日はショックで私は泣いてかなりへこみましたが、漢字ミスをするのは、書く事が足らないのと、視覚で覚えてないからだと、すぐにやり方を変え新たなチャレンジの日々を送りました。

知識はあるのに、漢字で落とす息子に与えた課題は「早く正確に漢字を書く練習」です。

塾の教材に「これだけは覚えよう」という4教科の記述問題集を利用し、社会の歴史は時代ごとにタイムを計り正確に漢字が書けているか毎日繰り返しました。理科は植物名称、人の体の名称を繰り返し早く正確に書く。

一度正解しても、また次には一字間違いをしたり、何度やれば治るんだろうと、ほとほと呆れ果てることもありました。先日メルマガで取り上げられていた中学生の女の子の一字間違いのケースと非常によく似ております。

しかし、私が得意な記憶ものが息子は苦手で、私が苦手な算数の計算は息子は得意だと思うと、性格はそれぞれ違うのだから当たり前かと思えるようになり、逆に私ができないことが得意な息子を尊敬できるようになりました。

今では算数と理科の計算問題は息子が私の先生で、塾から帰ると今日習ったところを教えてもらっております。

メルマガにいつもヒントをもらい、息子にはどの方法が適しているかトライ&エラーの日々。少しずつですが、日々成長できているのが、実感できる毎日です。

11月のテストでとうとう49まで下がってしまった偏差値を、漢字の練習に力を入れ、日々の勉強に大まかではありますが、全部の復習をしていた結果、おかげで4教科平均偏差値60までいき、志望校合格ラインを突破することができました。

苦手な国語がまだまだ上がる気配はなく足を引っ張り2教科では59でした。

今後は3月の課題「三日一単元復習法」へのチャレンジしようと思いますが、週のテストではいつも結構理解しているようで、すっかり忘れた部分を思い出すだけで今回大きいテストで良い結果を出すことができたことを踏まえ、広く浅くの勉強はやりつつ、とくに週テが悪かったところの単元復習に力を入れていきたいと思っております。

先日新6年生の教科書をもらい一段と難しく量も増え、また壁を乗り越えられるか不安でいっぱいですが、受験までの1年感色々試して行きたいと思っております。

次のテストに向けて、良いご報告がきますよう頑張りたいと思います。

まずはお礼が言いたくてメールさせていただきました。

ジュンポンママさん、報告ありがとうございました。まずはおめでとうございますですね。

あとは私がいつも言っている2回連続で取ったら本物というのを知っていると思います。

次のテストでバシッと決めて「本物」にしてください。ファイト!

とにかく子供のやる気を待っていたら手遅れになる。受験は先行逃げ切りが鉄則!子供が自覚するのを待つのは時間の無駄。子供がやる気になるのは受験直前ですから!

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