こんにちは、ストロング宮迫です。

しばらく前にボクは今まで触れたことがないある機械を操作しなくちゃならなくて、二人の人に教わったんです。

二人は対照的で、一人は「いろいろあるけれど、今日はこれだけを覚えてね」っていう人で、それ以外はあまり言わない人、質問したら「それは明日やるんだけど、こうするんですよ」って必要最小限しか言わない人。

もう一人は「これはこうで、あれはああで」って全部説明する人でした。1回しゃべりだすと、すべての事例を喋らずにはおれない人。

ハッキリいって二人とも、親切でとってもイイ方でしたよ( ^)o(^ )

でもね、「どうやるんだろ?」って不安に思ってるボクに顔近づけて5時間喋っても耳には入らないんですよ、一部しかね。子供と一緒です。

で、ボクが機械を操作しようとして間違う、いや間違うその前に、手を出してきて間違えさせないんだな。

「ああ、そうじゃないよ。これはね、こうやるって言ったじゃない!」ってまとめて全部喋ったことを「さっき言ったじゃない」と言った上で、ボクにはさせないで、自分で正しい操作をしちゃうんだな。それの繰り返し。

つまり、ボクは「ああ、そうか、こうやるだったな」って思っても、一度も自分自身で正しい操作をさせてもらってないんですよ。

少し二人を強調して書いたんだけど、どっちの人が「成績がすぐに良くなるか」わかりますよね?

間違えさせないと、覚えないじゃん( 一一)

ボクはあなたの子供と違って、間違えても不貞腐れたりしないんですよ( `ー´)ノ

間違えて覚えるの!間違えて、ビービーって警告音がなって「ヤベェー」って冷や汗をかくから覚える。

もちろんその間違いが重大な事故につながるっていうんだったら、ボクの手を止めてもイイんですよ。重大な事故を「起こさせて」学べ!っていうのは不親切だからね。

でも、自分がわかってるからって、正しい方法を知ってるからって、初めての人に「間違えさせない」と上達しないじゃないですか。

間違える前に指摘して、自分で操作すると、相手を褒めることさえできないんですよ。

「できたねえ!」って言えない。言えるのは「わかった?」しかないもの。

「わかった?」って言われたら「わかりました!」っていうしかないよね、ボクも子供もさ。

でも、「わかる」と「できる」や「はやくできる」は、いつもここで書いてるようにベツモノだから。

「わかった」つもりでも、身についていなければ、テストでは間違うんだ。だから練習する、繰り返す。そう、繰り返し間違うことが大事なんですよね。

でも、間違える手前で、全部指摘する側が取っちゃって、「こうで、ああで」と正解を授業しても「うんうん」って聞くだけで、自分でノートに解いて、こうでああでってしないと身につかない。

そういうことを改めて自分の体験として学びました。

おもしろいのは、間違えさせないで、全部自分で取ってしまって「ああで、こうで」と自分でやってしまって説明する人が「大丈夫? ちょっと自信なさげにやってたみたいだけど。まだちょっと心配ですね」なんて最後に言うんですよ。

おい!っていうね。過程で失敗させたり、間違ったりさせないで、体でも覚えさせないでおいて、自信なんかつかないし、そりゃあ心配だろうよ!ってね。

ずぅーーーーーと説明して喋ってる人が「できる? わかった?」って心配するというこの構図…..おかしいでしょ? 「心配になる構図」を作ってるのは指摘する側なのに。

でも、これは家庭で親子が勉強するときにものすごく起こってることです。日常茶飯事だ。

親が心配になるようなことを常日頃させておいて、テスト前には言うんだな「できる? わかった?」ってさ。できるわけねぇーだろ!

家で間違えたり、失敗したりして、それを繰り返しながら直して、家でできるようになったことの8割がテストでできるんであってね。

まあ、ボクは前向きな50歳だから、「そんな先生」に出会っても、「これはメルマガのネタだな」って思うだけだし、家に帰って「授業を思い出して」ノートを作って復習するからさ、まあ、できるようになるんだけどね。

でもね、そんな前向きの50歳でも「授業でしゃべられたことが多すぎる」と、家に帰ってうまく思い出せなくなるんですよ。多すぎてさ「あれ、これどうだったろう?」って迷う。処理しきれないシャワーを浴びせても、できるようにはならないってことですよね。

だから勉強では「親がわからない」ほうがイイって言ってる。すぐに「それ違うよ、これはね….」なんて言われたら、せっかく出たやる気もなくなるもん。

これは、ノリ勉に取り組んだくるりんママさんからいただいた報告の一部です↓↓↓

少し難しい問題になると何度やっても同じところを間違え、親子でドヨーンとなる。。褒めるところが。。無い。。

でも、つまづく箇所は取り出して暗記しよう!と切り替えられそうです。

つまづく箇所が見つかるなんて、「金の鉱脈」を見つけたに等しい!!

やったーっ!ってね。

「金の鉱脈」を見つけたら、「取り出して切り替える」んですよ。間違えないようにするにはどうする? もう少しさかのぼって「どうして間違えたんだろ?」って叱る前に聞いてやる。

間違えることが問題ではなく、間違えたものを再び「同じ答え」で間違うことが問題なんだから。間違えたら次に出会ったときに間違えないように処理すればイイ。

それはすばらしい説明が必要なわけじゃない。「なんでこうなるのか?」「なぜこうするのか?」そこに行き着けばイイだけだから。

「ああ、そういうことね」がそれだ。でも、それだけじゃ、本当に「わかったかどうか」信用できない。だからノリ勉でもやるけれど、子供に説明させるんですよね。

できればその説明中には、ノリ勉では、親が「どうしてこうするんですか?」って出来の悪い生徒役になって質問する。親がよくわかってたら、すぐに「その説明はおかしいよね」なんて解説し始めるんだ。でもそれじゃ、子供の頭もボクの頭も整理できないし、「本当にわかった」に行き着かない。

くるりんママさんの報告には、読む人が読めばわかる、「ああ、こう処理すれば子供にとって収まりがイイんだな」っていう感じがよく出てる。だからここで皆さんに読んでもらったわけだけど。

子供が「わかる」のに必要なのは、すばらしい説明でも、授業のシャワーでもない。「ああ、こういうことね」って自分の手でノートにやって、間違えたり正解したりしながら、繰り返してつかんでいく。補助輪付きの自転車から補助輪を一度外したら、もう2度と補助輪をつける子供はいない。

勉強でも、理想はそうしないといけない。でも、勉強になると途端に補助輪つけて、はずして、またつけてはずして、そのうち「もう受験生なんだから補助輪なんてつけてたら間に合わないよ」って自転車に乗れない子供から強制的に補助輪を外しちゃう….

子供もボクも転んでアザだらけだ。そりゃあ泣きたくなるよ。でも泣いたら「根性がない」とか「やる気でやれ」なんて罵声を浴びせられる。

ボクでもやってられないのに、子供なら…..($・・)/~~~

よぉ~く考えないとね。もちろん考えるのは、指摘する側、指導する側、上の立場の人、導く人、誘導する側、親のほうです。そうでないと、一部の人しか「できるように」ならないから。それこそまさにみんな都合がいい使い方をする「地頭のイイ子」だけが「できるように」なっちゃう。

でもさ、機械も勉強も、「人がやってる」ことでしょ?

一定レベルにまでは、誰でも、できるようになる!全員がね。

勉強でいえば、まあ母集団をどこにするかによって違うけれど、思い切って言えば「偏差値55以上にはみんな誰でもなれる」よ。全員ね。だって平均よりもちょび上でしょ!

もし、ならないときは「ウチの子は〇〇だから」と結論付ける前に自分たちがやっている過程を疑ってみるべきだ。必ずなにか問題があるからさ。そしてその問題はたいていは本人の問題ではなく、指摘する側、導く側、親のほうに問題点がある。

なんでもかんでも「自分が悪い」なんて思う必要はないけどさ。勉強で平均点以上にならないのは能力を疑う前に、やり方とやらせ方について必ず検証すべきです。

だって勉強で偏差値55以上なんて誰でもなれるレベルだもん!